研究課題/領域番号 |
24520510
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研究機関 | 武蔵大学 |
研究代表者 |
小川 栄一 武蔵大学, 人文学部, 教授 (70160744)
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キーワード | 夏目漱石 / 談話分析 / 「うそ」の分析 |
研究概要 |
本研究は、日本語コミュニケーション(=談話)の近世から近代へかけての変遷の究明を目的としている。今年度は近代の日本語資料として夏目漱石の小説を取り上げて、「うそ」の会話に関する考察を行った。その成果を拙稿「夏目漱石作品における「うそ」の談話分析」(『武蔵大学人文学会雑誌』第45巻第3・4号 平成26年3月)によって公表した。以下、その概要を述べる。 夏目漱石は登場人物に頻りに「うそ」を吐かせている。やや意外であるが、漱石は「うそ」を駆使する作家である。漱石が「うそ」を多用する背景に道徳重視の姿勢があるが、それは道徳的な規範意識に基づくものではない。漱石は道徳を情緒の一種として捉えていて、道徳に反する「うそ」を文学における感情表現の一手段としている。特に『坊つちやん』など初期の作品では「うそ」が社会の規範や正義に対峙するものとして扱われているが、これは道徳に反する怒りの情緒を描き出そうとするものである。 漱石の「うそ」の表現は次第に進化する。「うそ」には道徳との背反から人間の複雑な心理が発生する面白さもあって、読者にも「うそ」を吐く人物に同調することによって強い興奮やスリルが生ずる。『虞美人草』の小野が藤尾に吐いた「うそ」や、『こころ』の先生がKに対して言った策略のことば、『明暗』の延子における夫の真実を探りだそうとする「うそ」などがその例である。また、社会学の知見によると、「うそ」とは自己と役割(社会における役割、男女の役割など)との一致から発生するものである。それが不一致の人間には「うそ」が吐けない。このように「うそ」を吐けるかどうかによって、自分自身と自分の役割との関係において描く上できわめて有効である。『行人』のお直が二郎に行った翻弄という「技巧」は女性役割の遂行から生ずるものと理解できる。 結論として、「うそ」の活用は漱石の卓越した技量ということができる。
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現在までの達成度 (区分) |
現在までの達成度 (区分)
2: おおむね順調に進展している
理由
平成25年度に予定していた研究として、夏目漱石の小説作品の談話分析を行い、その成果を論文として公表済みである。平成24年度は、江戸時代後期の洒落本、山東京伝『傾城買四十八手』における談話について分析をしたが、25年度の研究と比較することによって、江戸時代から明治・大正へと談話の変化の過程を理論的に跡づけることができた。
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今後の研究の推進方策 |
平成26年度も引き続き漱石の小説作品を取り上げる。その登場人物の多くは東京語を用いている。作品に表れた東京語のあり方を概観し、多様な東京語を用いることによる表現効果について考察する。 近代において日本の標準語は東京語を基盤にしているが、両者の間には微妙な相違点があって、東京語のすべてが標準語とされたわけではない。そもそも、標準語とは公式のことばづかいで、改まった性格をもつのに対して、東京語は東京において現実に用いられた話しことばで、やや卑俗な言い方までを含んでいる。しかも東京語には山の手と下町との地域差や、書生ことば、若い女性のことばなど、階層や年齢による差異など、多様なものを含んでいる。漱石は東京(江戸)の出身ということもあって、その作品には東京語の精細な言い回しや、地域・性別・階層などによる差異がみごとに使い分けられている。近代の東京語に関する研究は充分に進んでいるとは言い難いが、漱石作品は当時の生きた東京語の実態を知る上で好個の資料を提供する。 これのみならず、漱石は、登場人物の性格の違いや、人間的な対立関係などの人物造形において、ことばづかいの違いを大いに活用している。このような手法は近世の式亭三馬『浮世風呂』などにも用いられているが、『浮世風呂』の場合は様々な人物のことばづかいや性格などを表面的に「写す」という段階に留まっているように見える。換言すれば写実の滑稽さを追求するものである。これに対して、漱石の場合は、多様なことばづかいの背景にある人間性や社会の本質的なあり方を鋭く探究する姿勢が表れていて、人間の対立や社会の構造が鋭くえぐられている。このことからも漱石作品の東京語表現を研究する意義はきわめて高い。以上を基本的な認識として、具体的作品の用例調査や作品分析などを行っていく。
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次年度の研究費の使用計画 |
当初、近世、近代の日本語資料を電子データにして、データベース化することを企画して謝金の使用を予定していた。しかし、今年度は夏目漱石の作品をのみを資料とすることになり、夏目漱石の作品データベースは完全なものではないが、すでに小川が私的に作成していたので、他の作品のデータベース化を行う必要がなかった。そのために次年度使用額が発生した。 最終年度に研究報告の冊子を作成する予定であり、多くの印刷・製本費用が必要となる。主としてそのために残額を使うことを予定している。
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