研究課題/領域番号 |
24520734
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研究機関 | 岩手大学 |
研究代表者 |
樋口 知志 岩手大学, 人文社会科学部, 教授 (10198989)
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キーワード | 城柵 / 蝦夷 / 征夷 / 阿弖流為 / 道嶋氏 / 桃生城 / 伊治城 / 胆沢城 |
研究概要 |
本研究課題に関わる本年度の主たる研究成果は、2013年10月に刊行された拙著『阿弖流為―夷俘と号すること莫かるべし―』である。本書は蝦夷族長阿弖流為の軌跡を中心に奈良~平安初期の奥羽政治史の全体的趨勢を明らかにしようとしたものであり、主に本研究課題の第三に挙げた「奥羽政治史の再構成」に関わる研究成果である。これにより、当該時期の奥羽政治史の全容について、一貫した見通しをえることができた。また本書では、課題の第二に設定した「古代城柵の史的展開の解明」のうち、三十八年戦争前より9世紀初頭までの奥羽両国の城柵に関する具体的考察を、第3・9章において展開した。次にその要点を掲げておく。 1.三十八年戦争前の759年に造営された陸奥国桃生城を拠点として、胆沢の地を含む北上川中流域の蝦夷社会を政治的傘下に収めようとする積極的な蝦夷政策の推進が図られたこと、2.767年に造営された同国伊治城においてすでに城柵官制と在地蝦夷族長の政治権力とが共存する様相が認められ、9世紀初頭の胆沢・志波・徳丹3城の支配機構の先駆的形態が見出せること、3.戦争前の時期、桃生・伊治両城を拠点とした蝦夷政策を主導していたのは牡鹿郡を拠点とする非蝦夷系豪族の道嶋宿禰一族であったこと、4.阿弖流為の降伏・刑死を経て802年に停戦した後、胆沢城(802年造営)・志波城(803年造営)・徳丹城(812年造営)と次第に城柵と在地蝦夷社会との相互依存関係や民夷融和的な様相が強まっていき、814年の嵯峨天皇による「夷俘と号すること莫かるべし」の勅の下で征夷の時代は完全に終焉、以後新たな城柵の造営はなされなくなったこと。 他に、古代城柵の終焉に関わって重要な存在と目される陸奥安倍氏・出羽清原氏についての基礎的研究に属するものとして、「『陸奥話記』と『奥州後三年記』」と題する小論を2013年6月に発表した。
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現在までの達成度 (区分) |
現在までの達成度 (区分)
2: おおむね順調に進展している
理由
当初年度内の研究計画として予定していたフィールドワークを行えなかった点は次年度の課題に持ち越されるが、三十八年戦争前から9世紀初期までの城柵の変容や、その間の政治史的研究といった課題については、『阿弖流為』によって一貫した見通しをえることができた。大きな収穫である。 また年度内に成果を活字化することができなかったが、878年に秋田平野を中心に勃発した元慶の乱についての研究を開始し、その成果の一部を2014年2月16日に東工大ロイアルブルーホールで開催された「東アジアの古代文化を考える会」において口頭発表した。次年度に活字化することを期したい。
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今後の研究の推進方策 |
26年度以降には、まず典籍史料の写本調査や東北地方関連遺跡等のフィールドワークを実施し、所期の成果を挙げたい。また来年度については、当初の研究計画では27年度の課題としていた元慶の乱に関する論考を執筆したい。さらに当初の研究計画にしたがって残された3年間を有効に使い、着実に研究成果に結びつけていきたい。
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次年度の研究費の使用計画 |
本年度に東京方面への典籍(写本)史料調査と東北各地へのフィールドワークを予定していたが、果たせなかったため。 次年度(26年度)への繰り越し140397円は、主に調査・研究旅費に充てたい。当初予定と合わせて24万余円になる。今のところ東京方面への出張2回、宮城・秋田・福島方面での出張各1回を予定。また残余は文献の撮影・写真焼き付けなどの費用にも充当したい。
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