研究課題/領域番号 |
24520797
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研究種目 |
基盤研究(C)
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研究機関 | お茶の水女子大学 |
研究代表者 |
松尾 有里子 お茶の水女子大学, リーダーシップ養成教育研究センター, 講師(研究機関研究員) (50598589)
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研究期間 (年度) |
2012-04-01 – 2015-03-31
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キーワード | 国際情報交換 / トルコ / 東洋史 |
研究概要 |
「近代オスマン帝国における女子教育」について、二度の海外調査(8-9月トルコ、ボスニア/2月トルコ)を行い、成果の一部を11月と1月に学会と研究会で発表をした。 今年度は、近代オスマン帝国における女子教育の導入と定着の過程を整理するとともに、新たに開校した女子師範学校に着目し、その職業教育の実態と青年期の女子高等教育の試みを検討することを目指した。また、これらの論を深めるうえで、オスマン帝国の近世から近代にかけての国家における「教育」の位置づけがどのように変化したのかを具体的に知る必要がある。そこで、伝統的なイスラム教育機関と近代教育の学校との比較を試みるために、資料の収集と分析の基礎作業を行った。 夏期のトルコ現地調査において、まず、近代の女子教育制度の導入に関する基礎史料の収集と分析を行った。オスマン帝国年報と公教育省年報を軸に女性教育制度の概要を時系列で整理しつつ、イスタンブルにある首相府文書館で公教育省関連の古文書史料を調査した。以上の調査から、18世紀中葉からすでにイスタンブルの都市部で女子専門のコーラン学校が開校され、主に支配階層を中心に女子児童がヴェールを着用し通学する習慣が生まれつつあった点が明らかとなった。これまでの通説では近代オスマン帝国では、一連の近代化改革=タンズィマート(制度の再編:1839-76)のなかで近代教育、及び女子教育の制度化が進んだと言われて来た。しかし、近代化以前に宗教教育の一環とはいえ、「学齢期」の女子に初等教育を施す機関がすでに成立していたことは、女子初等教育機関(6歳から4年制)が19世紀後半までにオスマン帝国全土に普及した背景を考えるうえで示唆的である。以上の研究は、二本の論文にまとめ、現在学会誌に投稿中である。
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現在までの達成度 (区分) |
現在までの達成度 (区分)
2: おおむね順調に進展している
理由
2012年8-9月にトルコ、ボスニア・ヘルツェゴヴィナで、2013年2月にトルコで現地史料調査にを行い、成果の一部を11月に開催された第54回オリエント学会にて、また2013年1月に「イスラーム法とテクノロジー」研究会にて発表した。現在、オリエント学会で発表した内容を学会誌に投稿中であり、また、ボスニア調査の具体的な報告を2013年5月に開催される第29回中東学会にて行う予定である。 今年度の現地調査では、前半の調査でこれまで従事して来た前近代から近代にかけてのオスマン帝国の教育、おもにイスラム伝統教育とその浸透について、後半の調査で近代女子高等教育の関して、新たな史料の発見と収集が出来た。これにより、次年度への研究に継続する問題や新たな課題を見出すことができたと考えている。 前半の調査において、サラエヴォとモスタルのイスラム法廷台帳に関する史料調査を行った結果、前近代のボスニア・ヘルツェゴヴィナ地方において、イスラム教育機関、イスラム法廷が非イスラム教徒との共存社会に根づき、社会的機能を発揮していた点が明らかとなった。これはオスマン帝国の制度、とりわけ上からの「教育」がバルカン社会に浸透し定着していくプロセスを提示できたと考える。一方、後半のトルコでの調査では、近代女子教育の中等教育以降の特徴を新たに発見できた点が大きい。それによると、義務教育修了後の女子が進学する高等小学校では、男子とは異なる教育プログラムが導入されており、イスラム的道徳、裁縫、料理、育児等の家政学が盛り込まれていた。これは「女性向け」の教育を意識した内容であった。女子師範学校は実質的に女子の最高教育機関として位置づけられたから、「女性に適した職業」の存在と青年期の女性の生き方のモデルを社会に提示することとなった。この女性向け教育が今後、フェミニズムのなかでどう変わるのか、視点を提示できたと考える。
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今後の研究の推進方策 |
今年度は、女子高等師範学校や看護学校等の女子職業訓練校に着目し、女子高等教育の試みと職業教育の実態の検討する。まず昨年度収集した史料を分析して、女子中等教育の「女性向け」教育の特徴を論文にまとめる予定である。 バルカン戦争以後、女子職業訓練校が増加した背景と社会的受容を検討するべく、イスタンブルの首相府文書館とソフィアの国会図書館にて史料調査を行う。その結果、オスマン帝国末期(青年トルコ革命期)の20世紀初頭までの青年期の女子教育の実態と社会的背景について展望が得られるであろう。一方、これまでに収集した公教育省関連の古文書に加え、青年トルコ革命政権の機関紙である『Tanin』紙や女性読者に向けて発行された新聞、雑誌類の分析を通じ、女子教育の一般社会への浸透度を考察したい。 次に女子の高等教育機関(=大学)への進学や青年女子の実業教育の進展を、欧米のフェミニズム運動との関連で読み解く作業を行う。19世紀を通じ主に欧米で問題となり、共学別学の是非やどの学問分野を女子に開放するか等が論議され、その結果それぞれの国情を反映して女子高等教育のありようは各々異なっていた。これらの欧米での論議はこれまでフェミニズム運動と関連づけられて説明されて来たが、オスマン帝国での場合も、この世界的潮流を受け女子高等教育の門戸が一気に開かれたのであろうか。これまでの研究では、主に女性の側からの働きかけで青年期の女性の教育が問題化したとはいえず、あくまで国家の側から女子高等教育の制度化を推進しようとした経緯しか認められない。近代トルコの女性のありかたをめぐり、青年トルコ革命期の女子高等教育の試みが、どのような独自性を持ち得たのか、それを調べるべく、第二回目のトルコ現地調査を行う予定である。ここでは、女子学生を初めて受け入れたイスタンブル大の文書の調査とその卒業生の子孫へのインタビューを予定している。
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次年度の研究費の使用計画 |
夏期のトルコ、ブルガリア現地調査(14日間を予定)において、航空チケット(250.000円)と滞在費(15.000×14)を含めて460.000円を、冬期のトルコ調査(3週間を予定)において航空チケット(120.000円)と日当(5.000×21)を含めて225.000円を必要とする。次に関連書籍の購入に150.000円、資料複写代として、50.000円を、パソコン備品や文房具等の消耗品費を61.500円を必要とする。
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