研究課題/領域番号 |
24520867
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研究機関 | 明治大学 |
研究代表者 |
池谷 信之 明治大学, 公私立大学の部局等, 研究員 (80596106)
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研究期間 (年度) |
2012-04-01 – 2016-03-31
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キーワード | 蛍光X線分析 / フォッサマグナ西縁 / 土器の越境的移動 / 搬入・模倣・地方型式化 |
研究実績の概要 |
先史土器の「フォッサマグナ西縁」を挟んだ越境的移動を、蛍光X線分析法によって判別するためのデータベースの構築が、本研究の第1の目的である。それに基づいて、土器移動の動態的モデル構築を展望することが、第2の目的である。 平成26年度前半までに、データベース構築のための資料収集と分析を完了し、後半からは遺跡出土土器(縄文時代前期初頭土器・弥生時代中期土器・戦国時代の瓦)を対象とした分析を開始し、その成果の幾つかを公表した。 縄文時代前期初頭土器(清水之上1式・同2式土器)を分析した結果、早期末に西日本一帯に降下したアカホヤ火山灰を契機として、「フォッサマグナ西縁」を越えて東海地方東部に搬入された清水之上1式土器は、続く清水之上2式段階には在地の粘土を用いて製作されたことが明らかになった。また同型式の分布圏内においても、東海東部と西部では微妙な文様上の地域差が認められた。これは災害により東海西部から東部に移住してきた集団が、当面は故地との関係を密接にすることで生存確率を高めていたものが、しだいに自立していく過程を示していると考えられる。 沼津市内にある三枚橋城は、豊臣秀吉の家臣が築いた織豊系城郭であるが、天守下の堀から出土した瓦を分析した。その結果、瓦は「フォッサマグナ西縁」の東側、つまり在地ないしその近辺の粘土を用いていることが明らかになった。かつて分析した小田原石垣山一夜城の天守の瓦も、同様に在地の粘土が用いられており、織豊系城郭の「現地調達」という原則を確認することができた。なお江戸後半に水野氏によって築城された沼津城の瓦は「フォッサマグナ西縁」の西側で製作されており、近世後半の海上輸送の発展を示すものと考えられる。 弥生時代中期土器については、三浦半島白石洞穴の調査に参加し、周辺遺跡の弥生時代中期土器を入手した。この分析については平成27年度にかけて継続実施する。
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現在までの達成度 (区分) |
現在までの達成度 (区分)
2: おおむね順調に進展している
理由
本研究の第1の目的である「フォッサマグナ西縁」東西の判別図を矛盾なく完成することができた。また実際の分析対象として選んだ縄文時代前期初頭土器、戦国時代の瓦の分析でも、本研究の第2の目的に沿った結果を得ることができた。
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今後の研究の推進方策 |
平成27年度前半は、神奈川県周辺の弥生時代中期土器と、長野から静岡東部にかけて分布する縄文時代中期末土器(曽利Ⅴ式・加曽利E4式)を分析対象とする。 弥生時代中期土器の分析は、現在発掘を継続実施している三浦半島白石洞穴の調査と連動する。三浦半島には弥生時代中期を中心に外洋系の海人集団が形成した洞穴遺跡が分布するが、それらの集団と相模地方一帯の農耕集団との関係解明がこの調査の狙いである。相模地方と三浦半島間の土器移動が重要な論点となるが、蛍光X線分析によって両者の化学的な差違を明らかにできる見通しが得られている。 縄文時代中期末(曽利Ⅴ式)段階には、中部地方に多く形成された大規模環状集落が解体し、曽利Ⅴ式土器の出土は極端に少なくなる。これとは逆に山梨県富士山麓周辺や静岡県東部で曽利Ⅴ式土器が増加する。既存の研究では、信州地方から静岡東部に向けた集団の移動があったことが推定されているが、明確な根拠はない。信州地方は「フォッサマグナ西縁」の境界付近ないし西側に位置しており、そこから土器が静岡県東部に移動しているとすれば、蛍光X線分析によって認識することができる。 年度後半はこれまでの研究成果を集約し、報告書としてまとめていきたい。
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次年度使用額が生じた理由 |
平成26年度途上で、蛍光X線分析装置のコントロール部であるパソコンの不具合が発生し、交換した影響などで、液体チッソを機器に投入しない期間が生じたため、8310円の不用額が生じた。
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次年度使用額の使用計画 |
平成27年度は7月に開催される国際第四紀学会など、研究発表の機会が増えることが予想されるので、本年度に繰り入れた8310円については、国内旅費に充足したい。
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