当選した府県会議員が任期(通例4年半数改選)を満了せず辞任することを、本研究では、地方名望家の政治的忌避と考えている。その辞職者の多さのピークは、明治12-13年の第一回又は第二回の府県会選挙で、埼玉65%・愛知64%、富山広島で59%と、大半の議員が任期途中で辞職していた。この時期、地方名望家にとって、地方議員職は忌避すべきものであった。しかし、その後、辞職率は、各県で傾向的に低下し、1892(明治25)年ごろまでに、愛知で33%、富山・埼玉で20%、広島で10%にまで低下する。このころには、府県会議員職は、公職として一定の定着を見たといえる。しかし、1892年新府県制による複選制が、各府県で順次導入されたことで、状況に変化がもたらされた。いち早く導入された愛知県では、94年に辞職率が50%まで再増し、96-97年に導入された富山埼玉では、一旦一桁まで減少した辞職率が、23%と18%と再度増大。例外的に施行されなかった広島では一桁台まで傾向的に低下した。新人議員の当選率は、富山で61%、埼玉で47%に及び、選挙制度の改正で、当選議員の属性に変化が生じたことがうかがわれる。ただし、両県庁の見るところ、全ての議員が自由党等の何らかの政党に所属しているとされ、ここでは、政党化の阻止なる複選制導入の山県等の立法意図は貫徹していないとも考えられる。1899年の新府県制の施行に伴い、府県会選挙は直接公選全部改正に改められた。以後、上記諸県での辞職率は、通例1桁から10%台になり、また政党化が遅れていた愛知や広島県でも明治40年代ごろから、政党所属が明らかとなる議員が過半を占めるようになる。「複選制」の導入は、新人議員の当選増加や、愛知県での政党化の遅延など一定のインパクトがあったと考察されるが、議員集団を一新させるとか政党化を阻止するなどの決定的な効果は収めなかったといえよう。
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