研究課題/領域番号 |
24530172
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研究機関 | 広島大学 |
研究代表者 |
寺本 康俊 広島大学, 社会(科)学研究科, 教授 (00172106)
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研究分担者 |
YULIA Mikhailova 広島市立大学, 国際学部, 名誉教授 (00285420)
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キーワード | 外交 / マスメディア / 世論 / 日露関係 / 英露関係 / 日米関係 |
研究概要 |
主として、日露協商後締結後のロシアの世論と外交の変容について研究を行った。先ず、1907年協定の締結後、ロシア人は日本に大きな関心を持っていた。その理由は小国日本が大軍事国家と見られたロシアに勝利を収めたということだけではなかった。日本人は外交手腕にすぐれ、卓越した官僚国家としてロシア人を驚かした。ロシア人はいわゆる「日本の謎」を解こうと思った。日露協商後締結後、ロシア新聞は日本に特派員を派遣し始めた。即ち、1908年1月新聞「Russkoe Slovo」は日本にネミロヴィチ・ダンチェンコを派遣した。戦後、ダンチェンコは日本の名所を訪れる一方、日本社会生活を注意深く観察していた。彼の記事は毎週、掲載され、1916年、日露同盟の調印時、書籍としても出版された。彼は日露同盟を東洋での日本支配のために道を開いたという観点から批判的に見た。今後は、ダンチェンコの日本への評価をもっと広いコンテクストの中で分析する必要があり、日本に対する否定的、肯定的な認識の同時共存をどのように説明することができるか、などを検討する。次に、外交的には、日露関係の正常化は、英露協商の交渉などの国際関係の大変化を伴い、東アジアにおける矛盾の結節点が日露から日米間の対立に転換したことを受け、日本は朝鮮半島から満州まで勢力範囲を広げ、新しい国益範囲を獲得する方針をとったことについて、ロシア国立歴史文書館で外交文書を調査し、ロシア科学アカデミーの図書館では新聞「Novoe Vremia」の記事を調査した。このように、日露の和解プロセスについて、ロシアのマスメディアの中でどのように表現されていたのか、ロシアでの体対日イメージが両国の和解に応じてどのように変更したかを検討した。また、日露外交関係の和解がどのような外交的経緯であったのか、ロシアなどの原資料を収集して検討を行った。
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現在までの達成度 (区分) |
現在までの達成度 (区分)
3: やや遅れている
理由
1907~1906年の研究対象期の中で、1907~1910年の前半期は進んでいるが、1910~1916年の後半期についてはさらに具体的な研究を行う必要がある。後半期の原資料の収集、分析に時間がかかり、日本、ロシア、イギリスでの原資料などによる研究などが必要である。
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今後の研究の推進方策 |
研究対象期間の中で、特に後半期の1910~1916年の期間の、日露関係の対立から和解に向けての研究を、外交、マスメディア、世論などの視点から、原資料を使うこと、また、日本、ロシア、イギリスでの史料館での原資料の収集などに基づく研究に取り組む。 今後、日露の和解プロセスがロシアの主要なマスメディアにおいてどのように反映されたか、日本のイメージが日露両国の和解に応じてどのように具体的に変更したのかについて、さらに詳細に分析、検討する。また、日露外交関係の和解がどのような外交的背景、経緯、影響を及ぼしたのか、日本、ロシア、イギリスなどの原資料を駆使して、さらに詳細な検討を行う。
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次年度の研究費の使用計画 |
当初予定していた日本、ロシア、イギリスの資料館での資料収集ができなかったため。 当初予定していた日本、ロシア、イギリスの資料館での資料収集を、今年度中に行う。
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