本研究ではソビエトにおけるファッションの生成と展開を展望し、衣服の供給・消費という観点から、「行政的・指令的」と形容されるソビエト経済の立体的な把握を試みた。 まず、計画経済の中でも、質の良い衣服を大量に提供するという課題は同時に追求できると考えられていた。その目的のため、国営のファッション・ハウスが設立され、戦後それは全国的に展開された。しかし結局これは、計画経済の中に埋没し、積極的な役割を果たすことはなかった。 とはいえ、それはファッションが計画に服従したことを意味しない。逆に、ソビエト政府は、ファッションをコントロールすることができず、画一的なファッションも生まれなかった。量産体制では応えられない顧客の個別的な要求を満たすアトリエや工房も公的に存在し、自家製作も奨励された。私的な仕立屋や投機組織についても国家は把握していた。 当局のファッションに対する態度は、ソビエトの全期間を通じていくらかの波はあるものの、流行の持つ計画経済との非親和性や反米的なイデオロギーを背景とする敵対と、西欧的なファッションへのあこがれの間で揺れ動いていたとも言える。 こうして、実際には、公式・非公式の多様なルートを通じて国民は、イデオロギー的拘束と製造業の立ち遅れに起因するいくつかの独自性を持ちながらも、その本質は西側ファッションの模倣である「ソビエト・ファッション」を開花させたのである。
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