ハーンが1938年12月核分裂を発見し、ドイツ国内および世界的に衝撃を与え、核分裂の連鎖反応も発見された段階で39年9月、第二次大戦が勃発した。陸軍兵器局はカイザーヴィルヘルム物理学研究所をはじめ、全国の主要研究所を管轄下において、兵器開発に動員する体制をとった。ハイゼンベルク他80名ほどの原子力開発研究者も組織され研究にまい進し、39年12月にはアインシュタイン・シラードの8月のローズヴェルト大統領宛て原爆開発提案よりも、実態に近い原爆の可能性を理論的に指摘するまでになっていた。 しかし、ポーランド攻撃の電撃的勝利、40年の西部戦線での電撃戦勝利で、見込みが不明確で長期的な開発の必要性のある原爆に関しては大量の重要資源を必要とするような工業的開発の必要性は認められなかった。 41年6月対ソ攻撃を開始し、当初は短期的に勝利するとの予想の下、動員解除の計画すら準備される状況下であったが、12月までには第三帝国最初の重大な危機、「冬の危機」が到来し、総力戦の泥沼に陥ったことが明確になった。42年1-2月、起死回生の革命的武器、原爆を求める要請が軍、学界、財界などから出された。その各界からの要請は軍需大臣シュペーアの下に届けられ、彼は42年6月、ハイゼンベルクをはじめとする原子力開発の最先端研究者から原爆開発の可能性を確認する会議を設定した。 しかし、ハイゼンベルクをはじめとする科学者は理論的可能性を説明はしたが、それには時間と莫大な資源が必要なことを念頭に1-2年以内の開発の可能性を否定した。だが、アメリカなら「数年のうちに可能だ」と。 まさにこの42年夏以降、ドイツ戦時経済は不確定のプロジェクトを推進するだけの人的物的資金的余裕がない窮迫状態に陥っていった。原爆開発は、その初歩の原子炉開発の段階を細々と、西南ドイツに疎開しながらかろうじて続けられるにすぎなくなった。
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