リスクからの回避の仕組みがいかに地域や社会階層に配置されるかが問われるなかで、原子力発電所、基地、廃棄物処分場の立地など、社会的必要性は認めつつも、当事者にとって迷惑と感じられる公共財に起因する環境紛争が深刻化している。とりわけ、災害型環境リスクによる環境破壊の実態が顕在化するなかで、震災(原子力災害を含む)からの復旧、復興という「公共の正義」に対しリスクの配分にかかわって争点化されるNIMBY(Not-In-My-Backyard)という課題への対処が社会的に求められている。 日本の環境社会学の研究領域では、参加型民主主義の重要性が、コミュニケーション的合理性論を基軸に議論され、場の公開性や運営の民主性、討論の対象となるデータの科学性をいかに保証するかが問われてきた。その一方で、こうした議論が前提としてきた西欧型の市民社会はあらゆる社会において整合的ではないし、個人の捉え方やコミュニティの意味づけも社会によって大きな変異を想定せざるをえないといった疑問や批判がある。しかし、人間の社会文化的生活に固有なコミュニケーション的行為に際し了解を可能とするコンテクストを形成しようとする日常実践のなかに近代の合理性概念の資源を再発見し、そのものの組み替えをはかる立場は、問題解決が要請される紛争の現場であるからこそ重視されてきた。 このとき、NIMBYという態度や考え方は、環境リスクの社会的受容にかかわる意思決定の阻害要因であるとされてきたが、本研究では、放射性廃棄物の処理処分をめぐる問題に向き合わざるを得なくなった地域社会の現実に焦点をあて、出来事に対処する地域の巧みな戦術と直面する困難について論じながら、公益性と私権との関係とその折り合いのつけ方や、負担のあり方について公と私の対抗的な関係を共的なものに開く「接合知」の可能性について検討した。
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