本研究の課題は、満洲国期間島省(現在の中国延辺朝鮮族自治州のほぼ全域)の近代学校教育制度の成立過程と間島地域社会の変容を明らかにすることである。今年度、北京、天津、延辺へ行って間島省の新学制実施以降の初等学校就学率と中等学校教育実態に関する文献資料調査に加え、満洲国期間島省内中等学校教育体験者を対象に教育意識と教育実態に関する聞き取り調査を実施した。文献資料の分析と教育体験者の聞き取り調査から以下の点を明らかにした。 1)1938年の満洲国新学制の実施により間島省の朝鮮族私立学校は満洲国の公立学校に改編され、教育内容と教育制度が統一された。間島省の特殊性により、初等学校は従来の民族別の学校制度をそのままにし、中等学校は複数民族の共学制度を実施した。中学校の入学試験は日本語で実施し、中学校の授業はすべて日本語で行われた。小学校では日本語教育が重視され、中学校では職業教育が重視された。民衆の教育意識は高く、1943年間島省初等学校入学率は78%で、これは満洲国全体の70%より高い。汪清県と和龍県にも中学校が新設され、間島省の中等教育は急速に発展した。女子の就学率も高くなり、1939年初等学校女子在学生は約1万5000人であったが、翌年の1940年には3万人を超えた。従来の龍井の2校の女子中学校に加え、図們と延吉に2校の女子中学校が新設され、間島省の女子中等教育は更に広がった。 2)間島省の中等学校男子卒業生の主な進路は、官公吏、教員、会社員、大学進学、留学で、女子卒業生は教員、会社員で、女子の社会進出が目立つようになった。中等学校卒業生は満洲国のエリートとして地域社会をリードする存在であった。 本課題は、満洲国間島省の近代学校教育制度の成立過程は、満洲国側が国民を創る社会変容過程であり、民衆側にとっては近代教育受容の過程であったことを明らかにした点において重要な意味をもっている。
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