<目的>本研究の目的は、1960年代後半から70年代にかけて、大阪における学童保育運動の組織化過程を、運動組織が所蔵する史料(未整理含む)の分析によって、実証的に明らかにすることである。 <明らかになった内容>1963年、大阪市内では、大阪市セッツルメント研究協議会(略称「大阪セツル」)加盟の児童館や隣保館によって夏期学童保育がはじめられ、その後、年間を通した学童保育へと発展した。その実践と研究の成果は、1968年3月、「大阪セツル」学童保育部会「学童保育要領」や「大阪セツル」・大阪市社会福祉協議会発行『学童保育―大阪市のあゆみと現状』としてまとめられた。/「大阪セツル」は、共同保育運動として動きだしていた保護者による学童保育運動をも包含し「大阪市学童保育推進協議会」(略称「推進協」)の結成を主導した。「推進協」は、1969年2月、第1回大阪学童保育研究集会を開催、同年4月には学童保育を実施する団体への助成制度を実現させた。しかし、「推進協」内部では、これで役割が終わったとする幹部層と、一層の運動を必要と考える学童保育指導員・父母らとの対立が起きていた。この内部矛盾は1970年4月「大阪学童保育連絡協議会」の結成へとつながった。わずか3年の間に、大阪における学童保育運動のイニシアティブは、セツルメント運動から共同保育運動へと移ったのである。その契機となったのは、(東京の)学童保育連絡協議会が主催する第3回学童保育研究集会への大阪からの参加であった。この集会に参加した者は、父母が運動主体となっている東京の運動に触れ、大阪でも父母が運動の主体となる運動へと変革を目指したのであった。 <資料集作成>今回、分析した史料は、40年以上経過し保存状態も悪く劣化がすすんでいた。保存が必要だと思われる史料を選定、デジタル写真撮影を行い、PDF化するとともに影印本とし資料集を編集発行した。
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