1930年代後半の生活綴方教育の動向についての研究として、同一校における綴方教育の推移に注目した。対象の事例は、和歌山県有田郡の八幡尋常高等小学校の綴方教育である。同校には、学校文集15周年を記念して、東京の出版社から『曙光』(郷土社、1934年)を発行するなどの顕著な活動がみられた。『曙光』には、木村文助や冨原義徳、小砂丘忠義など、同時代の著名な綴方教育関係者の寄稿もあり、史料として重要なものとみられる。ただし、現物は、1970年代までには保管されていたことが同校の創立100周年記念誌に表紙等の写真が掲載されていることで確かであるが、現在は、所在不明のままである。その所在調査の過程で、長期にわたる学校文集の発行を支えた教師たちの顔ぶれの変遷も判明して来て、学校文集に収められた綴方の内容の推移も部分的ながら判明してきた。本研究の課題は1930年代後半における綴方教育の動向にあるが、それぞれの学校には当然のことながら、そこに至る教育実践の積み重ねがあり、1930年代前半の動向も含めて実証的に整理していく可能性がみえてきた。『赤い鳥』、新興教育運動、生活綴方運動など、全国的な動きの反映も確認される。これを論文としてまとめるのは、平成28年度のこととする。 そのほか、従来まったく顧みられることのなかった『伸びゆく学童』(伸びゆく学童社)や、存在のみ知られていた『児童の綴方』(児童の綴方社)の確認をすすめた。その結果、通俗医学雑誌の一部分からら綴方雑誌が分離独立していく問題や、標準語の普及政策のもとでの綴方における方言使用の問題など、多面的な問題があることを明らかにすることができた。
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