研究実績の概要 |
本研究では、大名華族の海外留学について越前松平康荘を事例に検討してきたが、康荘の学事監督松本源太郎が康荘のいる英国サイレンセスターに居住せずに、オックスフォードやロンドン等に下宿を確保し、ほとんどの時間を自身の勉学と日本人留学生への援助・交流に費やしていたことに注目し、最終年度は大名華族の海外留学に伴い海外へ派遣された「家臣たち」の任務についてその足跡を現地調査により丹念に辿り、実態を明らかにした。現地調査では、まず康荘が大山陸軍卿一行と滞在したオーストリアでの世話役が公使上野景範と書記官本間清雄であることをつきとめた。さらに松本源太郎の1889年~1890年の日記を手がかりとして、英国オックスフォードでの勉学と生活を考察し、ロンドンの下宿先ミッチャム、交流した実務家らの滞在・視察先であった病院や郊外を調べた結果、住居では中産階級の最新式庭付き集合住宅や共有地(コモン)を中心とした一戸建て住宅、病院はナイチンゲール後の療養的機能に関心を持ったことが判明した。また、勉学では1889年創設のマンスフィールドカレッジで一時的学生として宗教、倫理学、美術史などの講義に参加する一方で、オックスフォード学生ユニオンソサエティのメンバーにも推薦、承認されている。 幕末明治の全国海外渡航者総数は延べ4,341名に上るが、大名華族子弟の随伴者の学問修行についてはこのリストには記載されていない。当時の文部省留学生は原則17歳~22歳を対象とし、ごく限られた若手エリート学生にしか機会は与えられなかった。海外修行の志は有しているが、学力的に、あるいは、年齢的に対象外である者は、この他の手段を模索しなければならなかった。本研究では、松平康荘の学事監督松本源太郎の事例により、海外留学に同道した家臣たちの変則的な学問修行が、結果として、近代日本の発展の支柱となったことを解明した。
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