平成27年度は1930年~40年代の戦時体制の中、学校音楽は他の文化やメディアとの関わりにおいて、何が正当性をもった教育として位置づけられたのか、その背景には何があったのか、その課題を明らかにするために次の2つ視点から研究を進めた。 1つは1930年代~1940年代に堺市内で実施された小学校での和音感教育の実際の解明である。1930年代後半から1943年までの指導構成は絶対音感や和音聴音に留まらず、和声的進行を重んじるカデンツ唱が重視された。これは指導者佐藤吉五郎の「国民皆唱」に向けた音楽教育上の改革的取り組みであった。それと同時に戸ノ下が言う、ラジオ放送「国民歌謡」(1941.2~)から「国民合唱」(1942.2)への改称は合唱による「国民意識高揚と教化動員」(戸ノ下2008))の一助であったいう指摘とも共通性をもち、カデンツ合唱は教化動員の機能強化の意味をもったと考えられる。また、当時堺市立殿馬場小学校においてモデル実践が行われたことを教師・児童の聞き取りより明らかにした。 もう1つは、雑誌メディアを活用した学校音楽の実相の一端を東京市尋常小学校での簡易楽器指導と絶対音感教育の出現と対立の過程を通して明らかにした。雑誌『学校音楽』を編集する教育音楽家たちは、児童の「日常生活の音楽化」をめざし、唱歌唱謡、簡易楽器の活用によって実現しようとハーモニカ、木琴等の大衆楽器や玩具の教育への取り込みに動いた。これに対し雑誌『楽苑』が事務局となっていた絶対音感ピアノ・早教育研究会の音楽家や教師たちは、西欧に比肩する音楽文化の基盤形成という立場からピアノ教育と関連した絶対音感教育を試行していた。それらの動きは、どちらも唱歌教育改革という問題意識から発しながらも、大衆音楽と西洋芸術音楽に関わる人々の雑誌メディア上での論争・市場拡大に向けたせめぎ合いでもあったことを指摘した。
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