研究課題/領域番号 |
24560792
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研究機関 | 愛知産業大学 |
研究代表者 |
石川 清 愛知産業大学, 造形学部, 教授 (40193271)
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キーワード | イタリア / フランス / ゴシック / 文化受容 / 建築様式 |
研究概要 |
イル・ド・フランスで発祥したゴシックの国外での受容に関しては、イタリアだけは例外的で北方と同じような様式の発展段階に従わなかった。不思議なことに建築の刷新との衝突や、フランスに生まれた非古典的な構成法の修得とは関わりをもたなかった。イタリアでは建築は常に敬虔なる古典主義(歴史主義)に従い、歴史はヨーロッパの他の何処よりも豊富でしかも深く浸透し、文化的に未だ全能であった膨大な古代の遺産と深く関わっていた。このよく知られた密着は、必ずしも受動的な束縛ではなく、能動的な行動であった。 基本的に中央集権国家であった中世フランスでは、ある地域に「新奇的」な趣向が出現した場合には、それは面的に拡がり浸透していく可能性を秘めている。それに対して都市国家が乱立する中世イタリアでは、隣接している都市同士が対立関係にあることも多く、ある都市に「新奇的」なものが導入されたとしても、それが都市国家の枠を超えて面的に浸透していく可能性は低い。つまり、多発的に導入されなければ、普及・流行していかない状況があったと考えられる。その中世イタリアにおいてゴシック的趣向伝達の役割を担ったのは、南イタリアではその地域を支配するフランス人為政者であり、それ以外の都市国家においてはドメニコ会やフランチェスコ会などの托鉢修道会であった。 結果として托鉢修道会がイタリアに導入したゴシック様式も、フランス人権力者たちが導入したゴシック様式も時代を経るにつれ拒否され、忘れ去られていったが、意図して取り壊されることはなかった。それらを実証し、その複層構造を包括的に捉え、可視化することが本研究の最終目標である。
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現在までの達成度 (区分) |
現在までの達成度 (区分)
3: やや遅れている
理由
フランス人が自らの覇権のために導入したゴシック様式は、当時のイタリア人にとって忌み嫌う対象ではあったが、托鉢修道会という媒体を通して導入されたゴシック様式は、むしろ好ましいものとして受け止められたにちがいない。いずれにしてもイタリアにおける古典を基本とした折衷主義的な志向の中で受容されたと考えられる。 以上、平成25年度に考えてきた事柄を概略的に述べたが、未だ相貌を総括的に捉えるに至っていない。それらを実証し、その複層構造を包括的に捉え、可視化することが本研究の最終目標である。 受容の複層性をもたらしている原因は、①カザマーリやサン・ガルガーノ修道院のようなシトー会のグローバル化に伴う移入、②ドメニコ会、フランチェスコ会のような托鉢修道会の布教活動に伴う移入、③フランス人教皇・枢機卿の建設活動による移入、④アンジュー家のようなフランス人為政者による移入、⑤ミラノ大聖堂などにみられるドイツ人建設職人による直接導入、⑥フランス貴族趣味の影響下にあった国際ゴシックからの影響、など複層した受容による。ヨーロッパの既存研究は、重要な一部をなしてはいるものがあるものの、断片的にしか複層構造の相貌を描き出せてはいない。 「研究の目的」で掲げたように、イタリアにおけるゴシックの受容様態に関して、現在まで考えてきた仮説を実証し、その相貌を総括的に捉えるために、大別したゴシック受容の主な6 つの位相、①シトー会のグローバル化に伴う移入、②托鉢修道会の布教活動に伴う移入、③フランス人教皇・枢機卿の建設活動による移入、④フランス人為政者による移入、⑤ミラノ大聖堂などにみられるドイツ人建設職人による直接導入、⑥フランス貴族趣味の影響下にあった国際ゴシックからの影響、に沿って各位相ごとに考察してきたがものを、イタリアにおけるゴシック受容の諸相を明確にし、その相貌を統括的に把握する必要がある。
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今後の研究の推進方策 |
ゴシック移入の位相ごとに研究の推進方策である。特に②③④に関しては、今年度が最終の詰めの段階に入る。②托鉢修道会によるゴシック様式のイタリア導入は、フィレンツェのサンタ・マリア・ノヴェッラ修道院にみられる。このドメニコ会聖堂に採用されているゴシック様式は簡素化されたもので、シトー会のゴシック聖堂から影響を受けている。特にドメニコ会の助修士の中には建築家の役割を担う者がおり、修道院死者名簿にはフランス・ガスコーニュ出身の助修士が数多く記載され、彼らがフィレンツェに初めての大規模リブ・ヴォールト架構技術その他ゴシック要素をもたらした可能性が高い。再度実施調査し、まとめに入る。③フランス人教皇・枢機卿による移入: 1261年から1285年まで教皇庁はほぼフランス人の手に握られていた。フランス人教皇や枢機卿はローマ人による外国人への反発からローマの近郊都市に居住することを余儀なくされた。しかしながら結果としてそのことがイタリアへのゴシック様式の導入を推進することになった。クレメンス4世は居住したヴィテルボにおいてゴシック様式を導入した。彼はイル・ド・フランスの大聖堂の愛好者であり、イル・ド・フランスのゴシックを南フランスへ導入したと同時に、それをヴィテルボの教皇宮殿に採り入れている。本研究ではGardnerの先駆的成果を踏まえつつ、ゴシック期の歴代フランス人教皇・枢機卿のイタリアでの建設依頼だけでなく、彼らの出身地でのパトロネージにも着目し、ゴシック導入意図を探る。 ④アンジュー家シャルル・ダンジューは、シチリア王国征服後にレアルヴァッレとヴィットリアの2つのシトー会修道院に政治的理由でゴシック様式を採用し、シチリアの晩鐘後の支配の手立てとした。唯一の先駆的研究としてBruzeliusの研究があるが、遺構としてわずかに残る南イタリアのこれらの修道院の今年度調査は欠くことができない。
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次年度の研究費の使用計画 |
研究の進捗がやや遅れているため、最終年度の調査費を増額しなければならない状況が生じたため。 実施調査に振り当てたいと考えている。
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