中世におけるイタリアと北ヨーロッパの建築の差異は、様式や図像による従来の建築史的分析からだけでは理解することができない。歴史的文脈、建築の構成手法、そして2地域の歴史的地理的条件の違いを含む、より深層の構造から理解されるべきであると考える。中世後期のイタリア建築のゴシック受容の問題を解明するには、イタリア・ゴシックの再定義なしに取り組むことは困難である。イタリア・ルネサンス建築を長年研究し続けてきた私にとって、ルネサンス文化をより深く理解するためにはその前時代精神であるゴシックの受容システムをイタリア側から把握することが肝要である。ゴシック建築文化の受容の複層的構造とその諸相を政治的文化的視点をも踏まえて総括的に捉えることが本研究の目的である。①カザマーリやサン・ガルガーノ修道院のようなシトー会のグローバル化に伴う移入、②ドメニコ会、フランチェスコ会のような托鉢修道会の布教活動に伴う移入、③フランス人教皇・枢機卿の建設活動による移入、④アンジュー家のようなフランス人為政者による移入、⑤ミラノ大聖堂などにみられるドイツ人建設職人による直接導入、⑥フランス貴族趣味の影響下にあった国際ゴシックからの影響、などが現在まで考えてきた仮説であるが、未だ相貌を総括的に捉えるに至っていない。それらを実証し、その複層構造を包括的に捉え、可視化することが本研究の目標であり、民族的文化的あるいは政治的社会的側面からイタリアにおけるゴシック受容の諸相を大別することができたと考える。
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