研究課題/領域番号 |
24560795
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研究機関 | 京都文教短期大学 |
研究代表者 |
山田 智子 京都文教短期大学, ライフデザイン学科, 教授 (60310637)
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キーワード | 日本近代建築史 / 寄宿舎 / 家庭寮 / 繊維工場 |
研究概要 |
25年度は収集資料と現地調査をもとに分析・考察し、以下のような成果を得た。 1.郡是製絲株式會社の戦後の女子寄宿舎・家庭寮・教育施設について 同社の女子寮舎が最初にRC造で建設されたのは昭和33(1958)年であった。RC造の女子寮舎には、水洗化により便所が各階に配置され、屋上には洗濯場や物干場が設置された。しかし全体的な平面型は、北側片廊下に沿って15畳の寮室が並ぶもので戦前の木造寮舎を踏襲していた。また寮室内から床の間が廃止されると同時に家庭寮が設置され、作法・割烹・生花等の教育が寮舎外の家庭寮で行われることを示唆していた。昭和43(1968)年建設の階段室型のRC造寮舎は、水廻りを4室が共有し、各室は6~10畳(2室が連結して16~18畳)で構成され、1人あたり3畳の面積が確保されるようになった。このような女子寮舎の大幅な改善は、当時の繊維業の労働組合組織が掲げた「寄宿舎対策指針」の影響を受けており、将来社宅への転用も視野に入れていたと考えられる。本研究は、建築史の分野では手薄であった戦後の寄宿舎についても取り上げ、民主化が急速に進展する中で建築構成がどのように変化を遂げたのかを明らかにすることで意義がある。 2.東洋紡績株式會社の昭和戦前期の寄宿舎・家庭寮・教育施設について 1928~1937年発行の東洋紡社内報『東洋家庭時報』『東紡家庭時報』から以下のことがわかった。工場では、深夜業廃止に伴う余暇時間の増加により、裁縫や割烹教室、運動施設等が一層充実した。女子従業員には仏教徒が多く、講堂には仏壇が置かれ、構内には神社や神殿も存在した。工場付設の東洋実科女学校が青年学校に移行しても当時の良妻賢母主義教育と合致し、自修寮(家庭寮)実習も活発であった。寄宿舎便所の水洗化、診療所のレントゲン室や太陽燈浴室の設置等、設備が充実化した。
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現在までの達成度 (区分) |
現在までの達成度 (区分)
3: やや遅れている
理由
25年度は学科長の役職に就いたことにより、時間的な拘束が大きく、遠くへの出張ができなかった。つまり地方の工場へ赴いて現場で資料との照合を行う調査があまりできなかった。一方、日帰りの出張が可能な郡是製絲の綾部本社と東洋紡績の大阪本社に通い、資料収集に専念した結果、郡是製絲では、大正期から戦後の昭和49(1974)年までに建設された寄宿舎・家庭寮・教育施設に関する膨大な量の設計資料を収集することができた。本工場だけでなく、地方の分工場の資料もほぼ揃えられたので、あとは時代・地域・建物種別等に細かく分析・考察するばかりである。東洋紡績についても社史編纂室が所蔵する戦前の社報の記事はすべて閲覧し、必要な記事は収集できたので、今後は分析と考察が中心になる。 以上のことから、現地調査はあまり進んでいないが、研究に必要で入手しにくい資料は揃えられているので、研究はやや遅れているものの、今後の現地調査の進展で取り戻せると考えている。
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今後の研究の推進方策 |
郡是製絲でも東洋紡績でも、現在寄宿舎・家庭寮・教育施設が残っていても使用されておらず、倉庫に転用されたり、そのまま放置されたり、あるいは他業種の会社に転売されている。そこで、現地へ行って入手した設計図書と実際の建物とを照合し、建設当初の状態を確認し、場合によっては実測調査を行うことが必要である。具体的に調査を行いたいのは、郡是製糸の関東や東北方面の工場(宇都宮・本宮・桑折・村上・鴻巣等)、東洋紡績では三本松工場等である。また、倉敷紡績と富岡製糸場の寄宿舎を比較対象として、現地見学も行いたい。 また、工場の就業規則、寄宿舎規定、当時の法整備や教育制度の状況、工場と地域の関係、建築構造の規定等について文献を収集し、寄宿舎や家庭寮の建築構成との関連性も踏まえる。 最終的に、各企業の寄宿舎・家庭寮・教育施設について、規模・平面計画・構造・設備・教育制度等について、変遷過程や特徴を見出す。
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次年度の研究費の使用計画 |
25年度は学科長の役職に就いたことにより、時間的な拘束が大きく、遠くへの出張ができなかった。つまり地方の工場への調査旅費としての出費がほとんどなかったことが理由である。 繰り越された費用の多くは東北・関東・四国等、地方の工場の現地調査のための旅費にあてる。次年度全体の研究費は、文献資料とCADソフト維持のための物品購入費、設計資料とデータ整理に要する人件費、大判の設計図の複写やデータ化する費用にあてる予定である。
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