いわゆる生命倫理学的な諸問題に関する議論において、あたかも誰もが直観的に把握しうる自明の意味を備えているかのように頻出する「生命」や「いのち」といった概念について、それらがそもそも「誰」に属するものとされているのかを分析し、さらにその作業を通じて、われわれが生命倫理学的な緊迫した場面において「誰(か)」すなわち人称的存在者として扱う対象はいかなる存在者なのかを明らかにするということが、本研究の目論見である。この大きな課題に沿った実際の作業として、今年度は、、アメリカ合衆国やフランス等で問題となった「ロングフル・ライフ訴訟(Wrongful Life Lawsuit)」の代表的な判例の判決文を詳細に分析する作業を続行した。 私見では、ロングフル・ライフ訴訟における原告の訴えは、「私は生まれない方が良かった(したがって、私を生ましめた責任を負う者は、私の出生について損害賠償を支払え)」と要約される。その本質は、自分の存在そのものの起源を一種のエラーとみなすことにある。このような主張は無効であるというのが加藤(2007)以来一貫した申請者の主張であり、それはこのような主張を価値的に肯定するか否かに先立つ問題である。しかるに、日本ではロングフル・ライフ訴訟そのものはこれまでのところ見られないものの、それに非常に近接した問題性を含んでいる(ただし価値判断は正反対である)と思われる「自分の存在を否定する」という反障害者差別運動のポピュラーなレトリックについて概念分析を行ない、それが言語実践として、本来の「障害者差別への抵抗」という企図に関連して無効であるとまでは言わないものの、とらわれる必要のない観念であるという暫定的な結論を得、『明治学院大学社会学・社会福祉学研究』第144号に発表した。
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