平成26年度も、過去二年間と同様、夏季休暇を利用してチェルノヴィッツに足を運び、資料収集と、現地研究者との意見交換に努める予定だったが、ウクライナの政治情勢がロシアとの戦時体勢に突入し、混乱状態にあることが危惧されたため、やむなく、ウィーンに赴くにとどめ、ウィーン大学図書館、及び、オーストリア国立図書館に通い、資料の収集とその読解に専念した。幸い、チェルノヴィッツ大学ドイツ語講師のBenjamin・Grilj氏と面会し、チェルノヴィッツの現況や私の研究の意義をめぐって、率直な意見交換をすることができた。 最終年度の研究成果としては、ナータン・ビルンバウムの仕事の意義の発見が挙げられる。ビルンバウムは「シオニズム」という概念を最初に提唱した人でありながら、自らはほどなくその立場を捨て、「ディアスポラ・ユダヤ人」という考えに転じたのであるが、それは、第一次世界大戦の泥沼化の中で、オーストリア帝国の崩壊という可能性が現実味を帯びるところとなり、それは、この帝国に住む多くのユダヤ人にとってカタストロフィー以外の何物でもなく、パレスチナの地への移住をおし進める政治的シオニズムによってしたのでは、この大破局に対応しきれるものでは到底ないことが明白となりつつあった切迫した情勢の中での思想転向だったと見るべきであり、そこに「ドイツ・ユダヤ文化の共生が史上ただ一度実現したとすればこの地である」とさえ言われるチェルノヴィッツに住み、そこで「言語会議」(1908)を主催した彼の経験が強く働いていたことは疑いない。 チェルノヴィッツの精神史は、カール・エーミール・フランツォースと並んでナータン・ビルンバウムを軸として描き出されねばならない、との認識が獲得されたのであり、本研究が目的とする『かつてチェルノヴィッツという街があった』と題する著作刊行の企画は、この基本構想のもとに進捗の途上にある。
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