28年度主に以下の研究に力を入れた。 ・「森川荘吉と大連能楽殿・水道橋能楽堂」というテーマについて深く資料を調査した。それについて「藝能史研究会」2016年11月例会で口頭発表し、論文にまとめ、『藝能史研究』216号(2017年3月)に掲載。 森川荘吉は宝生流の愛好者であるが、大連にいた40年の間、継続して能楽を展開した。彼は当時大連能楽界の主軸的な存在でもあり、大連で建築された能楽堂の建造施主でもあり、満洲における囃子(能楽伴奏)の第一人者でもあると言われる人物である。大連から日本に引き揚げ後、宝生会専務理事として、水道橋能楽堂再建の中心人物の一人となった。本研究は、一、森川荘吉の能楽閲歴。二、大連能楽殿建築関連事情。三、水道橋能楽堂の再建への関連事情。四、大連能楽殿と水道橋能楽堂のつながり(森川荘吉による両能楽堂の間につながりがあった)、という四つの方面で考察を展開する。考察して見ると、森川荘吉は能楽の愛好者であるが、能楽は彼の人生における大きな存在であり、彼は宝生流のみならず、近代能楽史を語る上においても欠かすことのできない存在であるといっても過言ではないと考える。 ・「戦前における松山能楽界と「満洲」及び台湾とのつながり」というテーマについて資料を調査し、六麓会(関西における能楽研究会)で、口頭報告をした。松山出身の台湾能楽界の重鎮小川尚義(1869-1947)の能楽展開、松山出身の喜多流の愛好者天野節次郎の1914年に大連市で喜多流の敷き舞台を作ったこと、松山喜多流の重鎮越智一也(越智磯次郎、崎山龍太郎の実弟)は大連における敷き舞台の建造者天野節次郎に招聘され、大連で謡曲を教授したこと、1917年崎山龍太郎等松山神能組の人達が、大連での能楽公演したことを考察するものである。
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