筑波大学附属中央図書館に所蔵される慈雲(1718-1804)最晩年の直筆本『法華陀羅尼略解』(1803年3月4日校了)には,計六陀羅尼より成る「法華陀羅尼」のうち「普賢陀羅尼」への略解の冒頭に「人法二空」「断習気」といった唯識学による注記が認められる.慈雲は,これに先立ち『雙龍大和上垂示』の一篇(1796年2月8日)の中で『成唯識論』に言及し,唯識学は『倶舎論』の六識に加え末那識,阿頼耶識を説いて八識とするが,密教ではさらに第九識たる「菴摩羅識」を説くと述べている.慈雲はこの垂示において,神道の国常立尊は阿頼耶識に,天御中主尊は菴摩羅識に当たると理解するが,『古事記』によれば,天之御中主尊は高天原に成った神である.一方,慈雲80代の著書『神儒偶談』には,神道における高天原が,仏道にあって持戒の場とされる虚空に相当するという「高天原虚空観」が繰り返し述べられている.密教において「菴摩羅識」は,金剛界五仏のうち中央の大日如来に,また五智のうち究極の「法界体性智」に対応するが,これらは「自性清浄心」と換言できる.一方『論語』衛霊公篇第15-42他には,孔子が「瞽者」つまり盲目の「冕」に対し,最高の敬意をもって接したことが記されているが,これは彼が,瞽者のうちに留められている「道統」を最大限に尊んだことを意味するものである.つまり孔子は,瞽者こそ儒教の原点たる「尚古主義」の体現者であると認識していた.瞽者は,前五識の筆頭たる眼識をも欠くものの,それだけに彼らの地上での生は,言わば「菴摩羅識」に基づくものだと理解できる.おそらく慈雲は,儒教における尚古主義のうちに,こうして神道・仏教に通じる「高天原虚空観」との,また密教における「法界体性智」との共通性を見出していた.われわれは,慈雲最晩年の著書『法華陀羅尼略解』のうちに,儒・仏・神そして密教の交差する地平を見ることができるのである.
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