26年度は、前年度に引き続き、セクションごとに20世紀ヨーロッパ文学におけるトラウマ表象の問題について、ベケットの作品を軸に様々な角度から分析を行い、考察を深めた。またその研究成果を国外の学会で発表した。研究成果を論文集の形でまとめ、英語の論文集Samuel Beckett and Traumaとしてイギリスの出版社から出版するため、プロポーザル作成などの準備を行った。小説セクション担当の田尻は、6月にロンドンで開催された英国モダニズム研究協会で、ベケットとヴァージニア・ウルフにおける日常的事物とトラウマの関係についての研究発表を行い、二人の作家において日常の事物への注視が個人的、歴史的トラウマ(第一次、第二次大戦)とどのように関係しているかを探った。さらにこの発表を上記の論文集に掲載予定の論文とすべく、大幅に拡大し、その過程で考察を深めた。演劇セクション担当の堀は、論文集に掲載予定の論文を執筆し、第二次世界大戦後、ベケットの劇作品がいかに冷戦時代の核の想像力に反応し、時代のトラウマを知る観客に向けられていたかについて考察した。とくに時代のトラウマが反映されているという観点から、地球上の最後の人間の「死」を表わした物語ともいえる戯曲‘A Piece of Monologue'(1979)についても作品分析を行なった。思想セクション担当の対馬は、ベケットの小説『ワット』の分析を通してトラウマと皮膚の関係について探究し、論文集に掲載予定の論文を執筆した。その際、主にアンジューの「皮膚―自我」に関する精神分析理論、コナー、ベンティーンの皮膚理論を参照しながら、『ワット』を「言葉の皮膚」としてとらえる観点から分析を進めた。それはこの作品をベケットが自らのトラウマ的危機に直面し、再構築しようとした心的外被とみなすと同時に表象装置自体を混乱させる力を孕むものとみなす観点である。
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