本研究課題は、アイゼンハワー政権が1954年に公表する大量報復戦略の展開の過程で日本がアメリカの「核の傘」に入った、という仮説の検証を目的とした。そのために、1953年から1954年に焦点を絞って、アメリカ側の資料(アメリカ国立公文書館や連邦議会図書館が収蔵する史料、および出版物またはウェブ上の情報として公開されているアメリカ国務省関係の史・資料)の収集と分析をおこなった。 その結果、日本を含む極東地域を舞台としたアメリカ核戦略の展開をきわめて断片的ながらも示す史料の存在を確認することができた(アメリカ連邦議会図書館所蔵のカーティス・ルメイ文書)。しかし、核兵器に関する情報の公開に対する制限もあって、日米間の「核の傘」の成立を示す決定的な史料を発見することはできなかった。1954年3月に西太平洋に位置するビキニ環礁でアメリカが実施した水爆の爆発実験によって日本の漁船が被ばくした事件(「第五福竜丸」事件)が起こったために、日米政府間に「核の傘」をめぐる関係が1954年中に成立する余地が小さかった可能性もある。ともあれ本研究課題は、少なくとも1953年から1954年の時期については、大量報復戦略の展開の過程で日本がアメリカの「核の傘」に入った、という仮説を証明するという結果にまでは至らなかった。 他方で本研究課題は、1955年以降のアイゼンハワー政権期についても同じ仮説を検証してみることが、次の研究課題となることを明らかにした。
|