長期雇用と内部昇進を柱とする人事政策、いわゆる内部労働市場には二つの機能があると考えられている。ひとつは、労働者に企業特殊的な技能を身につける誘因を与えること、もうひとつは、企業に労働者の能力を見極める機会と時間を与えることである。両方が機能すれば、企業特殊的な技能を身につけた労働者を適所に配置することにより、生産性を上げることができると期待される。 この、よく知られた理論的仮説を、実証的に検討することは容易ではない。内部資料を長期にわたって分析する以外にないからである。 本計画は、それを可能にするために、第二次世界大戦中にオーストラリア政府に接収された三井物産『特別職員録』をデータ化するものである。在籍した全正社員の年齢、学歴、部署、職位、給与が記されたこの資料は、人事権を行使する支店長以上級にのみ閲覧が許されたものであり、同時代における大多数の三井物産社員すら知ることのなかった、三井物産人事の全貌を把握できるよう、まとめられたものである。 本計画によってパネルデータ構築の一次作業を終え、探索的な分析も進めた。その結果として、社員にリスクを取ることを奨励する三井物産が、意外にも短期的な賞与によっては報いていないこと、主要支店を経験した後に本店の特定部署に帰る昇進経路があることが判明した。短期的な成果主義ではなく、長期にわたった吟味の結果としての昇進が、「人の三井」の柱だったのである。 すなわち、三井物産が内部労働市場の理論的予測に近い形で動いていたことが明らかにされたことになる。しかし、機動的にリスクを取らせることと、長期的な技能形成とをいかに両立させたのか、その具体像には解明すべき興味深い謎が、まだ数多く残されている。今後は、本計画によって整備されたデータベースを、内部職歴と昇進との関係に焦点を当てて深耕し、企業側の選別と労働者側の技能形成の過程を本格的に分析したい。
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