1957年頃の原子力黎明期の東大-阪大-東工大の間の重層的トライアングル構造を解明した。その要点は次の2点である。 1)阪大の原子力研究の基礎は、黎明期(1957年前後)に、東大出身物理学者、菊池正士、伏見康治らが拓いたことが分かった。両者は、学術会議議長、東大総長、日本原子力学会初代会長をつとめた茅誠司と学術面で意義深い繋がりがあった。茅は兼重寛九郎らと学術体制の刷新を図った。 2)1956年4月、東工大に原子炉研究施設(現原子炉工学研究所)が設置された。翌年2月、同大学物理学科から武田栄一が原子炉物理部門に、同3月、化学工学の進藤益男が原子核工学部門に来て組織基盤ができあがった。武田栄一は、東工大電気化学を出て、阪大の菊池正士の下で核物理学を学び東工大物理に戻っていた。東工大原子力黎明期のもうひとりのキーパーソンは、化学工学の大山義年である。 この東大を中心軸としたトライアングル構造は、その後現在に至るまでの日本の原子力の研究開発の学術および原子力政策の策定の基盤を成してき。 これら分析とそれまでの研究成果に基づき、原子力推進集団に対して、反原発学者勢力がいつどのような契機で分岐して行ったかを明らかにし、原子力ムラの形成過程を系統樹として表した。原子力ムラと反原発勢力は共通祖先をもっているのである。最も初期の分岐は、1957年、当時の原子力委員長・正力松太郎との確執のもと湯川秀樹が原子力委員を辞任したことが契機となった。そこには国産原子炉の研究開発をめぐり、湯川らの学者と政治家の認識に大きな乖離があった。そのことが原子力ムラと御用学者のルーツになった。また、時を同じくして、原子力委員会主導のもとで、原子力ムラの原型とも言うべき産官学の癒着構造が築かれた事実も歴史資料(湯川史料)から発見した。この原型たる癒着構造が、半世紀の時の中で発展しつつ現今に至っていることを明らかにした。
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