本研究では黎明期における我が国バスケットボール史研究の一端を明らかにするため、李想白が担っていた役割を考察した。 李想白の活動は組織的関与と技術的関与に別けてみることが出来る。彼らは前体制に反発する形で大日本バスケットボール協会(以下、「協会」)を1930年に設立した。協会には、規則委員、審判委員、競技委員、編纂委員があり、彼は規則委員の主任と編纂委員を務めていた。審判委員と競技委員に彼の名前はないが、彼は1936年に開催されたオリンピック・ベルリン大会で我が国初めての国際審判員として活躍し、日本代表クラスの指導にも関わっていたことを考えると協会の運営のほとんどを担っていたといえる。さらに、オリンピックでバスケットボールが正式種目になるための活動、海外のバスケットボール関係者との関わりなど、李想白の組織的関与は多岐に及んでいた。 彼の技術的関与は、当時のバイブル的存在であった『指導籠球の理論と実際』(1930)をはじめ、協会の機関誌『籠球』、大日本体育協会の機関誌『アスレチックス』・『オリムピック』など、数々の執筆活動を通して、技術や戦術の紹介を行っていたことが挙げられる。その他、自チームでのバスケットボールの指導、1933年には李想白ら協会がアメリカからJack Gardnerを招聘し、約1か月に渡り全国で講習会を開催してシステムプレーという戦術を広く知らせるなどしていた。 李想白の活動をみると先のことを見据えていたことがわかる。例えば、彼が著した「コーチの類型と進化」(『籠球研究(第7号)』1935)で彼は技術・戦術の過去と現在を踏まえた上で未来のことを記している。このように、彼の組織的関与と技術的関与により、当時の我が国の発展はなるべきしてなったと考えられる。しかし、競技的なバスケットボールが広まった裏には遊戯的なバスケットボールの姿が薄れたことを忘れてはならない。
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