本研究の目的は、1940年代の日本の公立小学校における学校体育がどのように展開したのかを実証的に明らかにすることであった。 本年度は、前年度までに実施した比較考察〔賀茂郡西条小学校(広島県)、郡山市金透小学校(福島県)、足柄上郡福沢小学校(神奈川県)、市原郡戸田村小学校(千葉県)〕を念頭に、学校体育に関する「戦前と戦後の連続性と非連続性」の把握と叙述に対する一助となる補足的な分析・考察を行なった。まず、1940年代前半における学校体育の方針を定めた教育審議会の審議(1937.12~1938.12)を取り上げ、体育史研究において未見の資料を用いて国民学校「体錬科」の構想過程を明らかにし、正課体育としての課題を確認した。次に、1920~40年代のアメリカにおける公立小学校の学校体育に関する資料を収集し、日本との対比を行なった。ここでは、“The Physical Education Curriculum”(Laporte、第2版、1938)、“Physical education syllabus”(ニューヨーク州立大、1934)、その他に各地区のコース・オブ・スタディーを参照した。 最後に、これまでの分析・考察を踏まえて研究の総括を行なった。その結果、学校体育史研究において1945年8月を区切りとしない歴史意識と叙述の必要性が示唆された。このことは、従来の研究で使用されてきた「戦時体育」、「ファシズム体育」、「軍国主義体育」に代わる新たな用語と枠組みを要請する。暫定的に示すとすれば、1920年代後半から1950年代前半の学校体育を「総力戦(体制)体育」として考察することが可能なのではないか、ということである。また、今日の学校体育システム(政策と実践)の原型を、戦後占領下のみに辿るのではなく、戦時下(戦争という条件下)も射程に収める歴史認識が必要となろう。
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