近代日本の宗教運動において、「生命」という概念がいかなる文脈で言説化されたのかを明らかにするため、新旧教団宗教に焦点を合わせ、教理における生命言説の比較研究を行なった。研究対象として、新宗教教団(主に仏教系)と、旧宗教(伝統宗教、主として法華系))の諸教団を選出し両者の共通性と差異についての分析・解釈を施した。 「生命」は、明治初期に「Life」の翻訳として定着したものであった。当初は、「人生」の意味が付与されたり、「人権」を含意するものとして使用されたが、明治後年に至り、近代化の反省から由来する反機械文明の文脈で言説化されるようになり、トルストイやベルクソン等の、いわゆる「生の哲学」の流行と並行して、「生命」は、今日の観念と同じような「いのちの生成原理」として語られるようになった。ここには、機械文明への反省が、当時の新しい西洋哲学の思潮と共振する面があると同時に、民俗的な「生成の原理」を自覚させるような効果を持った面が両存していた。これら思想史的流れを念頭に置き、旧宗教における生命言説の分析したところ、西洋の「生の哲学」を意識しながら仏教教理を説明しようとする志向(科学志向型)と、反機械文明の文脈から「生命」を、民俗宗教性を説明するための概念として使用する志向(民俗志向型)に大別された。 新宗教教団においては、先行研究でも指摘されてきたように、民俗志向型が優勢であるが、教理の呪術性を合理化する過程で、積極的に「生命」を使用する型が見受けられた。これらは新宗教教団のライフコースに応じて出現が異なり、「生命」が、反近代のコンテキストで言説化される場合と、近代に適合するために言説化される両側面が観察された。 ここから、近代日本の宗教運動において言説化される「生命」は、農耕心性を表現する用語のみならず、科学に対するアンビバレントな緊張関係から、生成した言葉であることが判明した。
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