本研究は、中世日本の天皇を社会秩序や文化形成を規定する思想的存在として捉え考察した。従来の仏教的世界観における天皇が支配の正当性を提示するイデオロギーに帰結される研究傾向に対し、それらを叙述する/されることによって天皇像がどのような社会的意義を獲得したか、そのエクリチュールを通して追究した。本研究の意義は、実体論からでは論じきれない天皇の社会性を捉え、前近代日本の文化形成との関わりを見いだした点にある。 今年度は天皇に関する叙述として慈円著『愚管抄』を分析した。本書はエクリチュールの観点からすれば、意味が理解されない叙述は歴史の「過去」から排除されたままの存在(M・ド・シェルトー)として捉えられるが、天皇を「思想的存在」とするエクリチュールに照らせば、必ずしも政治的観念であるイデオロギーに直結していない。むしろこれに反する全く別の規範で作られた「思想的存在」であり社会や国家と別の規範にあった。しかし全く社会と隔絶していたのではなく、むしろ社会と神話的世界を結ぶ、仏教的世界観における神話的身体としての「天皇」が社会を開/閉する存在として、一定の社会的意義を有していたといえる。 また、和歌灌頂と王権に関わるエクリチュールの問題として『古今和歌集』(以下『古今集』)注釈書を分析した。本注釈書は、比喩や見立てによってエクリチュールの構造が複雑であるが、それ故に歴史から排除されてきた天皇に関する言説であり、そこに天皇の「社会的」正統性が読み込まれていた。研究では『古今集』物名に関する注釈のうち、天皇に関わるテキストと図像に込められた見立てと比喩の読み解きを通して、解釈された「天皇」がどのような時空間に構想されているのか論じた。またこのような中世独自のエクリチュールとは、「聖なる」天皇像を社会的に作り出し、道々の文化によってそれが相承されてきた点を導いた。
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