本研究では1)アプシス装飾の変遷、2)受難伝図像の増補という二点から後期ビザンティン聖堂(13~15世紀)の儀礼化という問題の解明を試みた。 後期ビザンティン聖堂においてプラティテラ型聖母子像(インマヌエルのメダイヨンを伴うオランスの聖母子像)がアプシス装飾の主流となった要因を考察した。後期になると図像プログラムは多層化・複雑化する一方で、聖堂建築そのものは小規模な単廊式バシリカが主流となる。画家たちが直面したのは、どのようにして狭い壁面で様々な教義を効果的に伝えるかという問題であった。 プラティテラ型聖母子像は、オランスの姿勢が寄進者に対する加護を、インマヌエルのメダイヨンが神の受肉を表す。さらに、様々なアトリビュート・姿勢の天使を伴うことでキリストの受難や聖母の眠りといった複数の教義を表しうる図像である。それゆえに、画家はプラティテラ型聖母子像を、小聖堂の狭い壁面でも複数の教義を表現しうるオール・イン・ワンの図像として採用したものと推測される。 また、マケドニア、ヴァロシュのスヴェティ・ニコラ聖堂(1298年)の装飾プログラムを中心に、後期ビザンティンにおいて図像プログラムが多層化・複雑化した要因を考察した。後期ビザンティンの装飾プログラムでは、中期ビザンティン(9~12世紀)で主流となった十二大祭サイクルに加えて受難伝図像が大幅に増補され、中期では描かれることが少なかった図像や後期になって新たに創出された図像が挿入される。 この受難伝図像の大幅な増補は文学史的な発展と並行する現象であると考えられる。イコノクラスムにおいてキリストの人生を擁護するためマリアを主人公とする受難伝講話が創出された。受難伝講話は典礼に取り込まれ、人々は典礼の実践を通じて、受難伝のイメージを豊かに膨らませていった。13世紀までに受難伝は大衆化し、受難を主題とする演劇のシナリオも制作されている。
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