本研究は、20世紀初頭にアメリカによって提唱され、長らく列強の対華政策の基本となった門戸開放政策について、中国外政担当者の認識・対応を検討するものである。すでに指摘されるように、20世紀初めの中国の外政担当者は対外開放により列強の勢力均衡を促し、領土や主権の保持を図ろうとしていた。アメリカの提唱する門戸開放政策に対応することが喫緊の課題であったのである。 本研究では、とくに1909年頃の中国外交に焦点を当てることにしたが、それは清米独三国同盟の試みが失敗し、袁世凱が失脚した直後のこの時期、外務部では依然として人的・制度的近代化改革が進んでおり、また先行研究によれば清末の外交文書(『清季外交史料』所収)の中に「主権」の語が登場する頻度が格段に増加するのが1909年であるという。つまり、中華民国の民族主義的近代外交につながる変容をこの時期に認めることができる。 このため、本研究では、この時期の外務部の変化を示す動きとして、まず対外アピールの手段の一つであったPeking Daily Newsの分析を行ない、同時に外交官らの当該時期の日記を中国で調査した。その結果、日本との満洲懸案問題のハーグ仲裁裁判所への付託問題に焦点を当てることとした。この問題が、当時アメリカが中心となっていた仲裁裁判制度の受容にも関わり、中国外交の国際法受容および門戸開放政策の利用にも関わるからである。 最終年度は、ハーグ仲裁裁判への付託問題について日・英・米の外交文書や新聞等を調査するとともに、この交渉と対になっていたロシアとのハルビン協定締結交渉について、中国とアメリカの動きを検討し、それまでの研究成果を学会で報告した。さらに追加の史料を収集し、中米両者の思惑の違いから、この時期の中国外交の変化について見通しを得た。
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