本研究は、中世盛期にスコットランド各地で作成された聖人伝史料を歴史叙述として読み解くことを通して、同時期のスコットランドにおける地域意識とナショナル・アイデンティティの関係について分析することを目的とするものである。 主たる作業として、相異なる多様な歴史的背景を有するスコットランド各地で作成された聖人伝の描写を丹念に分析し、各々における地域的伝統に対する意識や統一されていく「王国」に対する歴史認識の多様性を明らかにした。 具体的に分析した聖人伝は、ゲール系の影響の強いスコットランド中央以北の地域ゆかりの『聖コルンバ伝』と『聖サーフ伝』、イングランドの歴史的伝統を重視する南東地域において作成された『聖ウォルデフ伝』と『聖マーガレット伝』、および、ノース系ヴァイキングの影響を強く受けて独自のアイデンティティを形成していた南西部のギャロウェイ地域ゆかりの『聖ニニアン伝』である。 他のヨーロッパ諸国と比べて年代記等の叙述史料の少ない中世盛期のスコットランド研究においては、証書を中心とする文書史料の分析や、後代の年代記等を利用した遡及的な類推に依拠する部分が大きい中で、今回の研究の成果は、同時代史料をもとにして地域ごとの多様な意識のありかたを具体的に提示するものであり、本研究者が継続的課題として取り組んでいる中世スコットランドにおけるナショナル・アイデンティティ形成過程の解明に、重要な一石を投じるものとなった。
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