本研究は、実業家出身の政治家・高碕達之助の行動とその論理を分析することを通じて、戦後経済外交の実相を明らかにすることを目的とした。最終年度では、以下の3つの研究成果が見られた。 第一に、戦後初期の高碕の行動から、復興と経済外交の実相が明らかとなった。高碕は国内では電源開発総裁を務める一方、対外的には、インドとの鉄鋼開発計画を推進した。両者に共通するのは外資導入に積極的な高碕の姿勢である。ただ高碕の場合は、経済外交を通じた人材や最新技術の導入に熱心であった。そのことが吉田政権との間で軋轢を生む反面、戦後復興に大きな役割を果たすことになった。 第二に、高碕の中国に対する姿勢から、経済外交における中国の位置づけが明らかとなった。日中LT貿易協定締結で有名な高碕であるが、戦後、一貫して中国へのアプローチを試みていた訳ではない。高碕が中国への接触を本格化するのは1950年代後半からであった。日本が経済的自立を達成したにもかかわらず、未だ米国市場が完全には解放されていない時代に、高碕は、経済外交の多角化を果敢に推進していた。対中アプローチもその一環だったのである。そのことは、当時の対中外交の重要な特質を示すものと思われる。 第三に、高碕の対中外交・対ソ外交の分析を通じ、非政府主体が外交に果たす役割を歴史的観点から明らかにすることができた。池田勇人政権は「日米欧三本の柱」論に代表されるように、西側陣営との紐帯を足がかりに日本の国際復帰を推進したと理解される。だが、池田外交は、高碕のような冒険商人的行動を取る非正式接触者をも上手く取り込み、対中・対ソ外交にも一定の成果を得るという、幅の広さを持っていた。それは、同時代に、高坂正堯が、英国エリザベス女王の治世に範を取った海洋国家の要件―思慮深い政治指導者が冒険商人を援助すること―を見事に満たすものであった。
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