本最終年度は、米国援助の終了に向けて、台湾経済の資本面での自立に向けた政策推移を検討した。1950年代後半から米国議会では対外援助に対する批判が高まっており、米国政府は対外援助の費用対効果を求めるようになった。こうした背景により、1957年には開発借款基金(DLF)が新設され、1955年設立の国際協力局ICA は1958年に民営企業局を設置して、米国の対外援助において民営企業を育成する体制が確立された。台湾では1959年12月に米国援助運用委員会(CUSA)内に工業発展投資研究小組が設置され、外資および華僑による投資奨励策の検討と、DLF獲得の支援という役割を担うことになった。 台湾政府の輸入代替工業化から輸出志向工業化への政策転換と理解される「19項目財政経済改革措置」には、貯蓄奨励、資本市場の準備、民間投資環境の整備などが含まれており、資本面での自立策も含まれていた。工業発展投資研究小組は、証券取引所を設立することによって民営企業の資本市場からの資金調達を奨励することを企図していた。1961年10月には台湾証券交易所が設立され、翌年2月から取引が開始された。このほか、米国援助終了後の中長期融資対策として、1959年5月に中華開発信託が設立された。同社はDLFからの1000万ドル借款などの米国援助資金を原資としつつ、銀行および民営企業への投融資を行った。 資本市場の育成は順調ではなかったものの、1960年代半ば以降は貯蓄率が上昇したこともあり、企業への融資環境は整った。投資に対する貯蓄不足を補ってきた米国援助が終了した後も、企業による設備投資は継続し、1960年代後半の経済成長を側面から支えた。
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