本課題では、ヒゲクジラの脳の嗅球に関して、組織学・比較ゲノム学・古生物学など多方面からの研究を行った。免疫組織化学法によってホッキョククジラ(ヒゲクジラ亜目)の嗅球における糸球体の分布を調べたところ、嗅球の背側には糸球が分布しなかった。また、クロミンククジラ(ヒゲクジラ亜目)の全ゲノムを配列決定して解析したところ、彼らは嗅球背側に特異的に発現する遺伝子を持たないことが解明された。これらの結果は、ヒゲクジラの嗅球は、陸上哺乳類のそれと異なり、背側領域を持たないことを示している。 ヒゲクジラは現在の人類の技術によって飼育が不可能であるため、行動実験などによって彼らの嗅覚能力を把握することは難しい。だが、背側領域を除去したマウスは、捕食者や腐敗物のニオイに対する先天的な逃避行動を示さなくなることが報告されている。クジラは海洋性であるために陸上動物の捕食者が存在せず、また鼻孔が口先に存在しないために口に入れようとするものが食べられるのか否かをニオイで判断することができない。このため、捕食者や腐敗物をニオイで判断できないというのは合理的である。 鯨類は、始新世に偶蹄類と分岐して海洋環境へと適応進化を遂げた。始新世の鯨類の化石を調べることで、次の事実が解明された。陸棲傾向の強いパキケトゥスまでは嗅球の背側にも神経の投射が存在した一方で、海棲傾向の強いレミングトノケトゥス以降では嗅球の背側からの神経投射は失われた。つまり、鯨類の嗅覚能力の変化は、海洋環境適応進化に伴うものであることが示唆された。 本研究結果は複数の英文専門誌に論文として掲載され、研究内容は読売新聞や朝日新聞など多くのメディアによって取り上げられた。
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