研究課題/領域番号 |
24820071
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研究機関 | 別府大学 |
研究代表者 |
田中 裕介 別府大学, 文学部, 教授 (30633987)
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研究期間 (年度) |
2012-08-31 – 2014-03-31
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キーワード | 考古学 / キリシタン墓地 / 唐人墓 / 近世初期 / 異文化交流 |
研究概要 |
キリシタン墓碑の調査については、大阪府茨木市千提寺西遺跡の中谷家墓地の調査を行った。現在大阪府教委が調査中のこの遺跡は、近世初頭にキリスト教徒となり、19世紀末まで潜伏が確認できる一家族の室町時代から現在に至る墓地であり、中世末から17世紀に作られた墓地の一部に、九州で確認された石組遺構が発見され、下音羽大賀家墓地とともに九州からキリシタン墓地の特徴が伝播していることを確認した。 大分県では臼杵市下藤キリシタン墓地の十字架石造物の実測調査と、豊後大野市犬飼町御霊園クルスバ遺跡の石造物実測調査を行ったが、その中で新たに罪標十字架を陰刻した石造物を確認し、キリスト教遺跡であることが明瞭となった。また下藤キリシタン墓地と類似した石組遺構を伴う墓地である岡墓地の石造物調査を実施し、15世紀から始まった墓地を改作してキリシタン墓地となっている可能性が高くなった。近世初期のキリシタン墓地の上部構造=石組遺構が九州から関西に分布することが判明した。 中国人墓については、九州の17世紀の墓地を調べるために、熊本県玉名市の3基の唐人墓の実測調査と鹿児島県坊津の略測調査を行い、これらの墓地が中国明代の福建省に遡源する華南様式の中国人墓で、とくに1619年日本最古の年号をもつ肥後四官墓は石材と切り出し方法の特徴から、被葬者の出身地である福建省から搬入された可能性高いことが判明した。 17世紀後半には、黄檗宗の僧侶とくに18世紀初めまではその墓地の形式が華南様式の影響を強く受けたものであることが判明し、同時に当時の上層武士の流行した儒墓の一部と琉球王国の亀甲墓が華南様式の唐人墓から影響を受けていることが判明した。 17世紀初頭のキリシタン墓碑は、福建を中心に展開した須弥壇形式の墓碑の一部と類似している可能性があり、次年度の調査でより詳細に比較する予定である。
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現在までの達成度 (区分) |
現在までの達成度 (区分)
2: おおむね順調に進展している
理由
キリシタン墓碑の基礎カードの作成は終了したが、予定した6基の実測調査については、大阪府茨木市千提寺西遺跡の調査に切り替えたため、行えなかった。しかしそこで九州で確認されたキリシタン墓特有の伸展葬を伴う長方形石組遺構を確認したことで、17世紀初頭の関西に分布するようになる半円柱形伏碑のキリシタン墓碑同様に、その下部遺構が九州から伝播したことを確認できたことは大きな収穫である。 大分県内のキリシタン墓地遺跡については御霊園クルスバ遺跡の破壊された仏教石造物の実測調査を行った結果、最古の年号が判明するとともに、調査中に新たに罪標十字架を印刻した不況期の石造十字架碑を発見し、この遺跡がキリシタン遺跡であったことが確実となったことは、予定以上の成果である。さらに類似する石組遺構を有する遺跡の探索を進め、豊後大野市岡墓地にそれを見出し石造物の実測調査を行った。 中国人墓については、熊本県と鹿児島県の現存例の実測調査を終了した。その中で熊本県玉名市所在の現存国内最古の中国人墓である肥後四官墓について、石材の矢穴の形状と石質から推定して、墓の石材は日本国内のものではなく、中国福建省つまり被葬者と推定されている朱印船貿易家の故郷からもたらされたものである可能性が強くなった。 当初予定していた長崎市内の唐人墓地の実測調査は、次年度の回すことにした。それは長崎市内の墓地調査中に見出した黄檗宗の僧侶墓の初期例のなかに福建を中心に分布する華南様式の中国人墓の影響が顕著で、さらに西日本一帯の黄檗宗の古い寺院に同じ様式の墓が所在することが判明し、その分布を調べることを優先したためである。 また中国の13~14・17~19世紀キリスト教墓地の資料収集おこない、途中経過と現状報告を平成24年12月のおおいた石造文化研究会の大会および25年3月に臼杵史談会総会でおこなった。
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今後の研究の推進方策 |
国内におけるキリシタン墓地と中国人墓地の基礎資料の収集を続けるとともに、比較資料として中国および東南アジアの既存の公刊資料を収集し、16世紀後半から17世紀にかけて東シナ海を中心に交流した墓制とその変遷過程を考古学的に明らかにする。そのために以下の研究を推進する。 ①キリシタン墓地については、大分県内に残る墓地遺構の石造物の資料化をおこなう。御霊園クルスバ遺跡、豊後大野市岡墓地、クリの木墓地。日本におけるキリシタン墓地の考古学的全体像を明らかにする。同時に禁教期にいたる変遷過程を追求する。 ②中国人墓地については、標識となる墓地の実測資料を整備して、日本における17~19世紀の中国人墓の編年作業をおこなう。さらに江戸期日本国と琉球国に伝搬した中国華南様式の墓地を明らかにする。一つ目は西日本各地に点在する黄檗宗の中国人僧侶墓の型式的特徴を確定する、二つ目は17~19世紀の日本の儒教墓にみられる中国墓地様式の影響を明らかにする。3つ目は琉球国において1670年代から採用される亀甲墓(華南の中国様式)の性格を明らかにする。 ③中国におけるキリスト教墓地などの宗教墓地はいずれも中国の在来墓制との混交が顕著であり、そのような16世紀~17世紀の中国の宗教墓地と日本キリシタン墓地の比較をおこないたい。中国国内のキリスト教墓碑やイスラム教墓碑は共通する特徴をもっており、その特徴は中国の仏教に由来する須弥座形式や中国式墓碑の採用である。特に華南様式の墓は民族や宗教の違いを超えて採用されている可能性があり、その様相を考古学的方法で比較して見通しを得たい。 ④以上の資料の整備の上で、17世紀前葉に九州から始まり西日本に採用された伏碑形のキリシタン墓地と石組遺構の由来が、単純なヨーロッパからの伝搬ではなく、西北九州の在地の要素と、中国系の要素の影響をどの程度うけているか、明らかにしたい。
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