本研究の目的は、天保の飢饉に際して、盛岡藩および仙台藩の領民がどのような打撃を受け、そして回復してきたのかを明らかにするものである。とくに中山間地域に着目し、そこで暮らす猟師や杣びとなど非農業者の盛衰を考察する。 研究の手法としては、盛岡藩と仙台藩の古文書から未翻刻・未公刊の一次史料を収集した。具体的には盛岡藩の藩日記「盛岡藩家老席日記雑書」と「同覚書」(もりおか歴史文化館所蔵)を調査し、ひろく安永年間(1772~)から文久年間(~1861)の記事を収集した。この数万頁分の日記から、天候不順、米価・酒価、領内人口や猟師の記録を抽出した。あわせて仙台藩本寺村(現一関市厳美町)の宗門人別改帳(東北芸術工科大学、写所蔵)から山立猟師の田畑の持高を抽出した。 これらの史料を現在分析中であるが、必ずしも望ましい結果は出ていない。たとえば天保の飢饉に限らず、その他の困難な状況において多くの領民が死亡したり、その生業を廃絶しており、村から「欠落」(失踪)して行方不明となる者も少なくない。ただし、こうした窮地は冷害や凶作による飢饉のみが原因ではなかった。とりわけ、18世紀末以降は蝦夷地に出没するロシア船への警備のために、盛岡藩から数多くの猟師が駆り出されていた。そして、その猟師の多くが病気や栄養不良などによって蝦夷地で落命していたことが判明した。領民を苦しめるのは飢饉だけではなく、外敵への備えという国防による疲弊も大きな要因であった。今後は、天保年間以降に領民がどのように回復していったのか、とりわけ山間集落の猟師人数の増減を分析し、数ヶ月以内に結論を導き出したい。 また、仙台藩の宗門人別改帳を分析したところ、(1)猟師は標準以上の持高のある者が多いこと。(2)そうした猟師はそれ以外の百姓に比べて、天保の飢饉後の生存率が高いことが判明した。つまり、農耕のみの単一な生業に頼らずに、多様な生産手段を持つ者の方が、凶作や飢饉を乗り越える力があったと考えられる。これは本寺村において当てはまる事項であるが、その他の村にも言えることであるのかは不明である。そこで、今後はより多くの村の宗門人別改帳を調査して、天保年間の前後の変化を分析することが必要であると思われる。
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