研究初年度の本年度は、本研究全体の出発点である'selecting Disiabilty'問題に集中的にに取り組むべく関連文献収集と読み込みを計画していた。この作業はおおむね順調である。それに加えて、前年度まで継続していた科研費研究からの継続課題をこなす意味をも含んだ研究をまとめつつある。 これまでの研究で、ケイパビリティ・アプローチこそが障害学との実り豊かな理論的関係を期待できることが確認された。しかし、その代表者Nussbaumでさえ、出生前診断で胎児に重篤な障害が発見された場合には、人工妊娠中絶を肯定しうると示唆している。つまり、Nussbaumもまた留保つきながら障害を否定的に捉えているのである。だが、人間にとって、本当に障害は「あってはならない」ものなのであろうか。これが本年度集中的に取り組んだ問題である。 本年度の研究では、「出生前診断批判は、意図的な障害児出生という直観的に容認しがたい帰結に結びつく」というMacMahanの議論を集中的に検討している。McMahanによれば、出生前診断に基づくスクリーニングに反対する人は、たとえばドラッグ中毒者が、ドラッグ摂取のゆえに障害児を産むことを道徳的に悪い行為と批判できない。そうであるならば、出生前診断批判は「障害児を産むべき」、少なくとも胎児が障害を負って生まれる確率が高まることを道徳的に許容することを含意する。それどころか、生きている子どもに人為的に障害をもたらすような行為も許容されるという。このMcMahanの出生前診断懐疑論への批判は、障害学陣営にとってきわめて深刻である。障害学にシンパシーを抱く論者は、もっぱら「親は子どもを無条件に受け入れる」ものだとの一種の徳論に訴えて再反論しており、その反論の射程を確かめる論文を準備している。論文は来年度の紀要に掲載される予定である。
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