演出家としてのブレヒトは「演出演劇」という概念の対極にいた。彼にとって演劇はさまざまな分野の専門家たちによる集団作業の産物であり、「総合芸術」だった。演劇作品は舞台上で完成するという考えから、稽古中にテクストに改変が加えられた。1922年に始まった彼の演出家としての仕事は、映画監督やラジオ放送劇のディレクターを含む総括的なものだった。1920年代のエーリヒ・エンゲルと舞台美術家カスパー・ネーアーとの出会いは、スイスの『アンティゴネ』上演(1948)やベルリーナー・アンサンブルの仕事に続いていく。彼らとの共同演出において、ブレヒトはドラマトゥルクの役割を果たした。
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