平成25・26年度に実施した富岡本の基礎的な調査を踏まえて、今年度は富岡本が如何にして成立したかという問題にアプローチを試みた。これに関わる先行研究は松村博司氏の二段階成立説があり、そのうち第二次改修の時期は『千載集』が本文の改修の資料となることから、同集の成った文治3年(1187)以降とする点は首肯できた。他方、大きな記事の異同が生まれた第一次改修に関して松村氏は、後冷泉天皇の御代(1045~1069)との見解を示す。しかし、今回の調査からそれに疑念を提示することとなった。 その理由の第一としては、富岡本に43例見られる「北政所」の語の使用時期の問題である。これは「上」を書き換えた場合と冨岡本独自記事の補入の場合とがあるが、この語が定着するのは11世紀末であり、後冷泉天皇の御代では齟齬が生じることが挙げられる。また第二に、富岡本の大きな異同(特に大きな増補)は、梅沢本・西本願寺本などが有する続編(巻31~41)、特に続編第一部(巻37~40)のもつ歴史認識との差異が著しいことがある。続編第一部は、その最終記事である延久元年(1069)からほどなく成立したとされるが、そこに見られる皇室と摂関家との関係から、富岡本の増補記事が後冷泉朝に書かれ得たとするは不合理であると考えられるのである。そして第三として、富岡本増補に『大鏡』記事の影響が指摘できる点である。これも富岡本の第一次改修が後冷泉天皇の御代とは捉え得ない証左と言える。 以上から、富岡本の第一次改修の時期を院政期に求めたいと考えるに至っている。院政期の政治状況の中で、嫡流摂関家がその存在基盤を再確認し直す営みとして、富岡本が作り出されたとの結論に至っている。以上の見解については、「『栄花物語』富岡本の成立背景」の論考とし、『語文と教育』(鳴門教育大学国語教育学会編)30号(平成28年8月刊行予定)に掲載する予定である。
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