「博覧会の時代と泉鏡花」という課題のもとに、彫金師であった父泉清次がいかに鏡花に影響を与え、鏡花作品にひきつがれたかを解明した。まずは、清次が明治6年のウイーン万博に「海女の玉取りの段」を象嵌した「花器」を出品した可能性の高いこと、明治18年のニュルンベルク金工万国博覧会に「香炉」や「赤銅の鉢」を出品したことをニュルンベルクのゲルマンナショナルミュウジアム附属図書館所蔵のカタログによって確認した。輸出工芸時代の特色をはっきり示す柴山象嵌の盆や、「鶴亀図大盃」など外国からもどってきた作品によって、鏡花の初期作品「聾の一心」(明治28年)と「鶴亀図大盃」の内容的な連関や、下図の構想が遺品のみならず「増補頭書訓蒙図彙」に酷似していることなどがわかった。ウイーン万博に出品されたと思われる「花器」は、鏡花の「歌行燈」(明治43年)に直結するもので、鏡花が意識していたと断定はできないが、この線からの「歌行燈」の構想を押し量る方向性が切り開かれた。 またニュルンベルク金工博について鏡花は特別に書いたものはないが、最初で最後の訳業であるハウプトマンの「沈鐘」(戸張竹風との共訳、明治41年春陽堂)における主人公ハインリヒの室内装飾には、ニュルンベルク出身の親方らの「金彫の名作」が飾られているとあり、管見によれば、もっとも正確な翻訳である。「沈鐘」はハインリヒという西洋文学に描かれた職人が主人公であり、「鐘」のテーマは「草迷宮」や大正期の戯曲にも浮上することを考慮すれば、鏡花の本領というべきロマンチシズムは、ハウプトマンーニュルンベルクを結ぶ線の延長上に考えうる。鏡花の初期から晩年までつづく職人小説の背景に父親の営みを介在させることで、比較文学、比較文化の方向性がみえてきた。鏡花の評伝、博覧会史、鏡花文学の新たな地平が融合してくるところまでを研究した。
|