研究課題/領域番号 |
25370294
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研究機関 | 名古屋市立大学 |
研究代表者 |
田中 敬子 名古屋市立大学, 人文社会系研究科, 教授 (70197440)
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研究期間 (年度) |
2013-04-01 – 2016-03-31
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キーワード | フォークナー / 中上健次 / 大江健三郎 / 国家 / 漂流 / ポストモダン / 世界文学 |
研究実績の概要 |
平成26年度は、まずReview of International American Studiesに掲載された論文で、フォークナーと中上健次の作品を比較し、個人と共同体、さらに国家との関係をテーマとする二人の共通点と相違点を明らかにした。中上健次の作品にみられる共同体や日本国にまつわる神話と伝説に焦点を当て、古来の物語の言説に潜む国家のイデオロギーに中上がどのように惹かれ、かつ反発したかを考察した。そして中上が日本古来の物語の呪縛から逃れ、積極的に国家を超える文学的想像力を構築しようとして用いた語りを分析した。中上の問題はフォークナーの場合でも、彼がアメリカ南部神話やアメリカ建設神話と対峙するときに意識されている。二人の作家がそれぞれ、自らのマイノリティの立場や多数派とマイノリティの二重性に翻弄されながら、いかなる独自の文学的言説によって国家的イデオロギーを超えようとしたのか、いくつかの作品を例に明らかにした。 さらにWilliam Faulkner in Contextに寄稿した"Faulkner and Japan"では、フォークナー文学の日本での受容の歴史を振り返りながら第2次世界大戦後のフォークナー来日を検討し、対日文化政策に組み入れられたフォークナーと、アメリカ文化の影響への不安を抱いていた日本知識人の関係を探った。なかでも大江健三郎がどのように日米間の力関係に敏感であったか、という問題を掘り下げた。大江は後期作品でも、現在の日本の立場を考えるために自覚的にアメリカ文化の進攻を検証している。こうして敗戦国日本と南北戦争で負けた南部という共通点から、フォークナーと大江、さらには中上を国家との関わりで検討する視点の有効性と問題を明らかにした。
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現在までの達成度 (区分) |
現在までの達成度 (区分)
2: おおむね順調に進展している
理由
個人と共同体、並びに国家との関係について、フォークナーと中上の共通点と差異を明らかにする研究の成果は、多数の投稿論文の中から査読を経て2014年9月、RIAS(Review of International American Studies)に論文として掲載された。ここでは両作家の作品中の定住者と漂流者、伝説、神話の用い方、パロディの比較を通じて、アメリカの理想、日本の古代神話などに潜む国家のイデオロギー対する作家の挑戦を解明し、彼らの世界的視野を指摘している。 さらに、フォークナーが1955年にアメリカ国務省の依頼で一種の文化大使として来日することになったいきさつ、日本における戦前戦後のフォークナー文学受容を検討し、フォークナーとアメリカ合衆国の関係、大江健三郎と戦後の日本のアメリカ文化受容、中上と大江のフォークナー受容の違いまでを概略的に示す論文"Faulkner and Japan"として、2015年1月にWilliam Faulkner in Contextという本に寄稿した。これはJohn Matthewsを編者として世界のフォークナー学者たちが寄稿し、ケンブリッジ大学出版局より出版されたものである。この書物はフォークナー文学を作品内容からだけでなく、フォークナー受容のコンテクストにも注目して多角的視野から解明しようとしており、フォークナー研究に新たな地平を開く試みの一つとして注目されている。 これらの実績によって、26年度目標としていた研究成果は、おおむね達成できたと考える。
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今後の研究の推進方策 |
平成27年度はこの計画の最終年にあたるので、集大成としてフォークナー、大江、中上三者の作品のモダニズム的要素とポストモダニズム的要素の度合いを検討し、いわゆるグローバル化、世界文学としての可能性についても三者を比較して、フォークナーという作家が二人の日本作家に与えた影響を総合的に判断する。個人と共同体、父権制社会、国家の関係が、国家イデオロギーとひそかに通底する神話や伝説という物語にも影響されていること、またそういう言説を作家がどのように脱構築して作品を書くか、という問題は、これまである程度明らかにしてきた。フォークナー文学の日本での受容とアメリカの、とくに冷戦時代の文化政策との関係についても26年度の研究で検討した。最終年度ではさらに、冷戦時代のフォークナーの政治的、文化的な役割とフォークナーの出版社や編集者の関係にも注意を払いたい。この時期、公人と私人のはざまでフォークナーは揺れていたが、彼の後期作品には歴史とも自伝的物語ともつかぬジャンルに属するものもある。中上健次が国境を超えるさすらい人を描きつつ、物語性を拒否してポストモダンな世界性を目指したとすれば、フォークナーは、ノーベル賞作家として有名になった大江と同様、物語りつつ「フィクション」の意味を問う。彼は「公」と「私」、歴史と記憶とフィクションの揺らぎをジャンル横断的な作品に展開し、今までの著作をパロディ化する晩年のスタイルともいうべき傾向を示す。国家権力とフィクションと共同体の関係から、ポストモダンの時代の文学の世界性についてフォークナー、中上、大江の三者を、彼らのテクストとそれを取り巻くコンテクストの双方から比較して結論を出す。
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