19世紀イギリスの文学とジャーナリズムに見られるイーストエンドの表象を探るにあたって本年度は、過去2年間で十分に精査できなかった作家二人のその地区への眼差しが持つ意味を探った。まず一人目は中産階級の独身女性作家マーガレット・ハークネスだ。彼女は、貧困と階級闘争の問題をジェンダーの問題とも捉え、最も犠牲となりやすい労働者階級の女性に目を向け、階級を超えた女性同士の連帯の可能性を、様々な形の母子関係を通して追求したのだった。そして、利己的な男性中心社会に欠けているもの、すなわち母性を根幹とする人間愛による問題解決への共感を読者に訴えたのである。 もう一人の作家として取り上げたのは、トマス・バークである。世紀末のコスモポリタン化したイーストエンドの様相を、彼の『ライムハウスの夜』を題材に、中国人男性と白人女性との性的関係から捉えた。そこから見えてきたのは、人種差別意識や東西の対立といった二元論的な区分にばかり囚われない彼の新たな視点だ。作品は、読者が「異質なもの」と思っているものが実は自分たちと本質的に変わらない存在であることに気づかせる。イーストエンドの、中心世界のイデオロギーに囚われない徹底した再解釈を要求していることが読み取れる。 要するに、イーストエンドの表象を分析する作業から見えてくるのは、中心世界に属する人々自身が「異質なもの」を含んでいるということだ。その地区へと人々が慈善活動やフィクションを通して惹きつけられるのは、その地区が、社会の急激な変化の中で断片化する彼ら自身を、彼らが意識するにせよしないにせよ、映し出しているからなのである。単純な二項対立を中心に形成される価値観は否定され、人々は自らのアイデンティティを見つめ直し、アイデンティティとは何か、そもそもアイデンティティなどというものが存在するのか、を問うことを迫られるのである。
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