近世(または初期近代)のドイツ語圏では、奇譚集(Kuriositaetenliteratur)と呼ばれる大衆向けの著作が流布した。これは世界の摩訶不思議な出来事を集積して読者に供する、16世紀から18世紀にかけて陸続と現れた一大流行の読み物であった。同じ近世に、皇帝ルドルフ2世がプラハに設えた「驚異の博物館」(Wunderkammer)が存在するが、奇譚集はその書物版と考えればよい。近世の文化的所産として、形式的には人文主義的な知の累積の作法に基づいている。内容的には、宗教改革以後の宗教的説話や奇蹟譚と重複しつつ、しかしまだ近代18世紀の百科事典のような合理的秩序をもつには至っていない。活版印刷の普及とともに誕生した読者層、すなわち当時の都市市民が知の理想とした「博識」(Polyhistorismus)を象徴する、雑多な内容の混沌的な書物である。とりわけ読書市民層に対して、有用な知を提供すること、娯楽的かつセンセーショナルであること、またキリスト教的に教化的であること、などを特徴とした。 このテクスト群を研究対象として、本研究は、近世ドイツないしヨーロッパの精神史的な特徴を明らかにすることを試みた。アウグスティヌス以来の否定的な「好奇心」(curiositas)観がルネサンス・近世の時代に大きな価値転換を受け、現世の多彩な現象・事件への独特な関心と、霊的一者への伝統的な志向性とのあいだに、興味深い緊張関係が生まれる。具体的には、タンホイザー伝承とアルラウネ伝承を分析の対象として選び、それらが後にグリム兄弟によって近代特有の意味づけを与えられる以前の、中世末・近世特有の言説と民衆信仰のありかたを叙述した。この関連で、近世ドイツを代表する作家グリンメルスハウゼンの重要性があらためて明らかになった。またタンホイザー伝承の分析においては、日本の浦島伝承の比較対照を試みた。
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