本研究はエリアス・カネッティ(1905-1994)の文学作品と思想の変遷を辿りつつ、本邦で初めてカネッティ研究の総論に取り組んだ。彼はオーストリアからイギリスに亡命したユダヤ人のノーベル文学賞受賞作家(1981)で、その作品は小説『眩暈』(1935)、戯曲、『群衆と権力』(1960)、自伝、断想集と多岐にわたり、遺稿もある。本研究では、申請者のこれまでのカネッティ研究の成果を基盤に、カネッティの作品と思想を三つの変遷、1)文学形式、2)権力論、3)人物描写の変遷からとらえなおし、これらの変遷とカネッティのユダヤ人としてのアイデンティティとの関わりを、遺稿や往復書簡の考察を踏まえ、総論としてまとめた。 平成25年度は3)について研究を行った。遺稿と蔵書が保管されているチューリヒ中央図書館(スイス)での調査を行い、現地でカネッティの一人娘で遺稿管理者のヨハンナ・カネッティにインタビューした。調査により、カネッティが古代ギリシャに始まり17世紀イギリスで開花したジャンル「キャラクター」を意識して膨大な人物描写を残したことを明らかにした。 平成26年度は1)について、特に自伝の研究を行った。カネッティは『群衆と権力』出版後、ドイツ語圏で1960年以降に評価を高めるが、特にオーストリアでは「古き佳き」ウィーン時代を描いた自伝の評価が高い。オーストリアの文化政策の一環である過去のとりくみで、カネッティが「オーストリア作家」として不動の地位を与えられたことがわかった。 平成27年度は研究を一時中断、平成28年度は2)について、特に1940年代から晩年に至るカネッティ独自の死生学について再検討し、死に抗する態度の変化を明らかにした。さらに総論として、カネッティがナショナリズムに否定的で、遍歴と祖国喪失によってユダヤ人としての自己を規定し、その態度が作品全体に反映されていることを論じた。
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