七十回本『水滸伝』は、金聖嘆(1607?~1661)が物語の後半を削除し本文に批評を付したもので、好評を博したものの市場独占には至らなかった。競争相手の簡本はしばしば陳枚(1638~1707)こと陳簡侯の序を冠するが、彼は当時の有名な編集者であり批評家でもあった。一方、七十回本は王望如によって増補された。彼は1652年の進士であり、自分の批評や陳洪綬(1598~1652)の繍像40枚を増補したのである。さらに雍正年間(1723~1735)には、勾曲外史の序を付す七十回本が出版された。 繍像は新しくなり王の批評は無い。乾隆年間になると、この新しい繍像40枚が今度は簡本のうち『漢宋奇書』に利用される。その後は両系統とも多様化が進み、この出版競争は清末に石版印刷など新技術が中国に導入されるに至り七十回本が優位に立つ。ただし1902年刊行の八巻本が現存するように、簡本も命脈が絶えた訳ではない。 簡本の源流は挿増本にあるが、そのうち甲本の半葉23枚が新たにイギリスで市場に出回り中国人収蔵家が落札した。これらは版心が切り取られてしまっているが、他のテキストとの比較検討によって本来の順序が復元された。また本文や挿絵のキャプションの分析によって、この新資料が『水滸伝』テキストの変遷に占める重要性も明らかになった。 七十回本は広義の繁本だが、繁本であるのみならず『水滸伝』研究全般において扇の要となるのが容与堂本である。「庚戌(万暦三十八年、1610)」の序をもち、ほぼ完全な現存テキストは北図本、天理本、内閣本の3つだが、原刻本に対して北図本と内閣本は補刻本(前者は後修本、後者は再修本)、天理本は覆刻本であることが、版面の特徴と字句の異同の双方から実証的に跡付けられた。
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