本研究では主に、日中戦争期の日本支配下の上海で刊行された二つの国策新聞、『大陸新報』(日本語)と『新申報』(中国語)の紙面を取り上げ、上海に留まった知日派の中国知識人の活動と言説について分析した。その中でも、日本留学の経験を有し、文学団体「創造社」の作家であり、かつ医学者として東方文化事業の上海自然科学研究所に勤務した陶晶孫に焦点を当てた。上記二紙における陶晶孫の動向に関する報道、および上記二紙に陶晶孫が発表した文章の分析を通して、彼がいかに戦時下日本の文化政策への「協力」を強要されながら、同時にいかに日中二カ国語の言説を用いて「抵抗」の意志の表明を行っていたかを考察した。
|