日露戦争後のポーツマス講和条約でロシアから獲得した沿海州などの漁業権をめぐる、主に一九〇〇年代から四五年敗戦までの海軍による北方警備の実態とその意味するところを検証する。関東軍の場合、その権益は国策会社としての満鉄に集中していたのに対して、北洋漁業の主役は日魯漁業株式会社・日本水産株式会社などの民間企業であった。 一九一〇年代半ばまでは「露領漁業」のみで一千万円に満たなかったが、一九二九年には「露領漁業」三七〇〇万円、「工船蟹漁業」一四〇〇万円の漁獲高をあげ、輸出額も「年額四、五千万円」となり、漁業従事者は約三万人を数え、投資額は「約三、四千万円」に上った。 厳密にいえば日本のソビエトに対する漁業権は「露領漁業」に限られるが、「北洋の生命線」としての「権益」は「北洋漁業」全般におよぶものとなった。しかもその過半が欧米向けの罐詰として貴重な外貨獲得源となっただけに、「満蒙権益」に次ぐ「国益」とされた。なお、「北洋漁業」の権益の規模は、「満蒙権益」のおおよそ五分の一程度であった。 「北洋漁業と海軍」という限られた観点から軍隊のあり様を大胆に類推すれば、平時においては「権益」・「国益」擁護と在留民「保護」を名目に軍隊は駐屯・滞留ないし巡航することに大きな意味がある。他国の「権益」・「国益」と競合・対立する場合においては、軍隊の第一義的役割として紛争から武力衝突、さらに戦争の段階へと突き進むといえよう。近代日本における日本の対外出兵・事変・戦争の名目は、海外における在留日本人の「保護」ないし「権益」の擁護がほとんどであった。同時に、「権益」擁護はそれらの軍事行動の目的でもあり、多くの場合、そこから新たな「権益」の拡充がなされた。「利益線」の拡充はさらなる「利益線」を生み、それらは「生命線」として死守が叫ばれる。
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