本年度は、まず、当時の財界の主流な団体であった経済連盟会と東京商工会議所が発行している月刊誌の内容について、当該期に絞ってリストアップし、広域経済圏構想に関連する記事や論文を複写して収集した。また、「満洲事変」からアジア太平洋戦争開始前までの時期について、財界や経済団体の調査資料や報告書を入手した。さらに、アジア太平洋戦争期の広域経済圏形成の政策史料を、企画院や大東亜省を中心に、前年に引き続き調査収集した。 その上で、これまでに収集した資料から、まず「満洲事変」から日中戦争に至る広域経済圏構想を分析した。当初、「日満経済ブロック」の構想が注目されたが、その構想は「満洲国」の実権を握る関東軍と財界では大きく異なっており、その違いは様々な経済的結合関係において表れる重層的なものであった。そして、対立的な構想を保持していたそれぞれが、1935年半ばには、ともに「満洲国」経済と世界経済に対する情勢認識から、異なる論理で中国華北(北支)地方を組み込んだ「日満支経済ブロック」を主張し始めたことがわかった。 次に、経済界が、「南洋」を組み込む「大東亜共栄圏」が構想するに至った要因について分析した。1940年に入りヨーロッパにおける第2次世界大戦の本格化によって日本の輸出が減退したことにより、アメリカからの機械や原料についての輸入代金を調達できなくなることから、国内産業の高度化と「南洋」からの資源獲得が考えられたことがわかった。 広域圏構想において包摂する地域が拡大する過程には、政府による政策だけでなく、経済界の構想が背景に存在したことがわかるとともに、その拡大の論理を理解することができた。
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