本年度は最終年度であり、比較的残存史料の多い、備後(広島県)、備前(岡山県)、摂津国(大阪府・兵庫県)、因幡・伯耆(鳥取県)、石見国(島根県)を中心に叡尊教団の末寺の展開研究を現地調査を踏まえて行った。備後国では尾道浄土寺文書の分析を行い、浄土寺開山定証の死亡年が、一三二七年とする寺伝とは異なり、一三〇七年であったことを明らかにできた。それを踏まえて、定証起請文の位置づけ直しを行った。備前では、善養寺による成羽川開削事業関係史料(石に刻まれた銘文など)をコンピューター処理により、判読できるようにしたうえで、その解読をし直した。それにより、善養寺尊海と西大寺実行房実専との協力の実態を明らかにできた。たとえば、実行房実専は二人の僧と考えられてきたが、一人の僧の諱と房名であることを明確にできた。摂津国では、多田院は鎌倉極楽寺配下である時期があったことを明らかにし、鎌倉極楽寺流の存在に注目した。因幡・伯耆見国では、いずれも国分寺が西大寺末寺であり、それらの調査により、とりわけ伯耆国分寺は一三世紀末には西大寺末寺化し、因幡・伯耆国分寺ともに一五世紀半ばまでは西大寺末寺であることを明らかにした。また、伊豆金剛寺の極楽寺長老善願房順忍の骨蔵器銘文の調査などによって、善願房順忍、本性房俊海といった忍性以後の鎌倉極楽寺住持次第も明らかにできた。こうした成果によって、叡尊教団が一五世紀半ばまでは継続して一定の繁栄を遂げていたことを明らかにできた。
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